東工大について

<絶対零度=-273.15度>への挑戦

<絶対零度=-273.15度>への挑戦

「絶対零度」とは?

私たちが日常使い慣れている温度の単位と言えば、摂氏(℃, セルシウス度)や華氏(℉, 華氏度)が一般的です。なかでも、スウェーデンの天文学者アンデルス・セルシウスが考案した摂氏は、水の融点を0度(0 ℃)、沸点を100度(100 ℃)としたもので、日本人には最もなじみ深い単位です。

さて、今回のテーマである「絶対零度」は、熱力学温度(単位K, ケルビン)における0度で、0 Kと表されます。絶対零度の存在が示されたのは17世紀と意外と古く、フランスの物理学者ギヨーム・アモントンにより推定されています。温度は、物質の熱運動をもとにして規定されているので、下限が存在します。それは、熱運動(原子や分子の動き)が小さくなり、エネルギーが最低になった状態です。この時に決まる下限温度が絶対零度です。つまり、絶対零度は地球上で最も低い温度といえます。

アモントンの気体温度計のイラストと説明図
アモントンの気体温度計のイラスト
(左 定積温度計の雛形)と説明図(右)

では、この絶対零度は、摂氏ではマイナス何度になるのか? 先のアモントンは、温度計の研究の際、気体の温度を下げていくと、ある温度で圧力がゼロになると考え、その温度を-240 ℃ と推定しました。とはいえ、温度の高低の順位を数値で表すための基準がまだ確立されていない時代です。その後、18世紀にはジャック・シャルルとジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサックがこの考えをさらに進め、絶対零度は-273 ℃ であると推定しました。そして、幾多の研究をもとに、現在は-273.15 ℃と定義されています。この絶対零度の下2桁を決めることが世界中の研究者たちに課された難題であったのですが、実はこの小数点以下2桁目を決める決定打を放ったのが東工大の研究者だということは、意外と知られていません。

一生を棒に振る覚悟でライバルたちに挑む

木下正雄(左)と大石二郎(右)
木下正雄(左)と大石二郎(右)

絶対零度の下2桁の決定に挑んだのは、物理学教室の木下正雄と大石二郎。木下は東京大学を卒業後、ドイツ、イギリス、オランダで熱伝導や低温実験に従事した後、1927年に帰国、後に東京工業大学に教官として着任しました。英語に堪能で人望も厚かった一方で、華やかな場所を好まない控えめな気質でした。大石は、木下のもとで学び、本研究において実験の計画・遂行を担った人物でした。

実験には高精度の気体温度計を用います。その温度計の製作、実際の測定、データ処理の一連の作業には10年近い年月を要します。それだけに、成功すればまだしも、うまくいかなければ一生を棒に振りかねない挑戦でした。まさに、研究者生命を賭ける覚悟が求められたのです。

新営間もない本館で“実験室づくり”からスタート

すべては、1932年に竣工したばかりの本館の一室に、物理学教室の実験室が設置されたことから始まりました。物理学教室の教授に着任した木下は、大石を助手に伴い、実験の準備に没頭します。当時は特殊ガラスをドイツから輸入するだけで1年近くも要したといいます。また、溶接や加工が難しく、日本一の熟練工と誉れ高いガラス職人の腕をもってしても、四苦八苦の連続。なんとか本格的な実験装置の組み立てに取りかかったものの、周囲からは厳しい視線が注がれました。「そんな研究をいまさら日本で始めて、何の意味があるのか?」すでにこの頃、ドイツの国立物理工学研究所(PTR)とオランダのライデン大学が精密測定用の気体温度計を作り上げ、それぞれ氷点(摂氏0 ℃)について、273.16 K、273.11 Kと暫定的な結果を導き出していたのです。「これ以上正確な値を求めるのは技術的に無理があるのでは……」、そんな見解も飛び交う中で研究に着手した木下と大石。そこにもう一つのチームが、名乗りを上げてきました。熱測定で実績を有しているマサチューセッツ工科大学(MIT)のJ.A. Beattieのグループでした。

MITグループは273.16 K~273.19 Kという、従来の発表値よりも高い数値を氷点として発表しました。これらに対し木下・大石チームは、氷点が273.15 Kと273.16 Kの間にあるという測定結果を導き出しました。さらに、1938年にはより精度の高い等温線法(Isotherm method)を用いて、同様の数値を打ち出しています。

気体温度計の全貌

気体温度計の全貌

献身的な研究への姿勢が世界に評価される

T0(氷点)への挑戦を綴った大石の著書
T0(氷点 )への挑戦を綴った大石の著書

ケルビン目盛による氷点の決定を迫られていた国際度量衡委員会測温諮問委員会は、会合を重ね検討を繰り返すも、第二次世界大戦による混乱や上部委員会による決定の見送り等により、なかなか進展を得ない状況下にありました。

第3回会議(1952)以降、関係者の間で各グループによる測定結果や過程について詳細な議論が行われました。MITグループはガラス容器の代わりに鋼鉄の二重壁容器を採用していたため、熱伝導率に疑念が生じていました。さらには、初心者によるデータ取得を行っていた等、データの信憑性という点でも問題を指摘されていました。一方、木下・大石チームに対しては、前述の等温線法の精度などの利点に対し理解が示され、評価は高まっていました。

紆余曲折を経ながら、ようやく結論を得たのは1954年の第4回委員会。1939年の第1回委員会から実に15年の歳月が流れていました。このとき、最終的な決定値として示された氷点の値は、木下・大石チームの導き出した273.15 Kでした。

摂氏0 ℃が273.15 Kであるということは、これを熱力学温度における絶対零度(0 K)を基準として置き換えてみると、2つの温度の間には 熱力学温度[K] = 摂氏温度[℃]+273.15 という関係が成立します。この定義に当てはめて換算すると、絶対零度(0 K)は-273.15 ℃ということになります。

温度の精密測定は、種々の測定の中でも最も難しい部類に入ります。にもかかわらず、決して資金的にも恵まれてはいなかった当時の状況下で、しかも後発組でありながら、ガラス細工を駆使して組み立てた手づくりの装置により導き出した結果が世界基準となったのです。

絶対零度という言葉に触れたときには、ぜひ二人の先人の功績を思い出してください。

本稿は、本学史資料館が発行したリーフレットの内容を再構成し、掲載しています。

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2014年5月掲載

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東京工業大学 総務部 広報課

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