東工大について

近代デザイン史に残る足跡

近代デザイン史に残る足跡

「カッコよくて使いやすくなければモノは売れない。モノが売れなければ国は立ちゆかない。」―このような、デザインに国の興亡がかかっているという考えのもとに、いち早く東工大の前身である東京工業学校に設置されたのが工業図案科でした。これが紆余曲折を経て、現在の田町キャンパスに工芸を専門とする新しい学校を創設することに繋がり、日本の工業デザインの発展に大きく寄与しました。 ここでは、工業デザインの「ゆりかご役」を果たした工業図案科と、「乳母役」を果たした2人のパイオニアをご紹介します。

工業図案科―その誕生と廃止

およそ100年前、東京工業学校に手島精一校長のもとで「工業図案科」が設置されました。工業製品は、性能はもとより、使いやすく美しくなければならないという考えに基づいて設置された工業図案科でしたが、「デザイン」ならば、芸術を専門にする東京美術学校(東京芸術大学の前身)が適当だろうということで、17年後には、工業図案科は廃止され、在学生とともに東京美術学校に移ることとなりました。
しかし、美術学校となると、「機能美」の実現に不可欠な工学的要素がうまく教えられず、また、日本美術に重きを置き、合理的な西洋美術が軽んじられる当時の風潮も重なり、工業図案科が目指す美麗なる製品のための「産業工芸」の必要性はすぐには理解されませんでした。
廃止当時の工業図案科長・松岡壽は、これを遺憾とし、工芸図案に関する高等教育の必要性を訴え続けました。また、工業図案科の卒業生である安田禄造も、「本邦工芸の現在及将来」を発表して工芸富国論を展開し、松岡とともに産業工芸の必要性を唱えました。

工業図案科の実習室 工業図案科の実習室

委託後間もない東京美術学校の校舎 委託後間もない東京美術学校の校舎

松岡壽と安田禄造―工業デザインのパイオニアたち

松岡壽の自画像松岡壽の自画像

松岡壽は、1862年に岡山藩で生まれました。少年のころの松岡は、漢学塾に入ったものの、漢学よりも絵に熱中し、手習いの時などはほとんど絵を描いていたようです。その後、1877年の工部大学(東京大学工学部の前身の1つ)附属工部美術学校開設とともに、画学科に1期生として入学しました。

しかし、尊敬していた教師フォンタネージが工部美術学校を去ったことがきっかけで、学校の指導に不満を持ち、1879年に退学します。
そして、松岡はともに退学を決意した同志たちと「11字会」(入学が11月で、退学が明治11年に因んで命名)を結成して、"自然"を師にお互いの研鑽を積むこととしました。

松岡はその後、ヨーロッパでの留学を終え、洋画家として活躍するかたわら、西洋画の地位向上に努めます。美術工芸品の向上にも熱心で、特許局審査官として、産業としての工芸品の発展にも尽くしていました。それを手島校長に見込まれ、1906年に工業図案科の科長として迎えられることになります。

ここでも松岡は専門分野の地位向上に努め、就任当初は工業図案科に認められていなかった教員の海外派遣も実現しました。その最初の派遣者となったのが、当時の安田禄造助教授でした。

安田禄造は、1874年に東京に生まれました。小学校の訓導(現在の教諭)を経て、東京工業学校から改称した東京高等工業学校に入学、工業図案科を卒業しました。卒業と同時に工業図案科の助教授となった安田は、その後、オーストリアに留学し、ウィーン工芸学校のホフマンに師事します。ホフマンは建築家かつデザイナーとして知られており、モダンデザインへの道を切り拓いた先駆者の一人です。ホフマンの現実的で実用的な様式を追及する姿勢は、工業図案科が目指していた方向と合致していました。
安田はその後、西欧各地を巡り、1914年に帰国しました。同年、教授に昇進しましたが、その数か月後には工業図案科が廃止されるという一大事にみまわれます。安田一人だけが東京高等工業学校に残され、工業図案科の在校生全員と教官は東京美術学校に移ることになりました。

安田禄造の肖像画 安田禄造の肖像画

安田の著書「本邦工芸の現在及将来」 安田の著書「本邦工芸の現在及将来」

東京高等工芸学校の誕生―念願の産業工芸

工業図案科が廃止されて以降、松岡や安田らの働きかけもあってか、美術学校に移った関係者の不満も次第に高まり、美術学校からの分離独立の機運がくすぶり始めていました。
そんな動きが美術学校で起こり始めているところ、おりしも文部省が高等工業学校(工業に関する専門教育を施した旧制専門学校)の拡充に乗り出そうとしていた時期だったことが幸いします。1921年、政策にも合致することから、新設の1校(東京高等工芸学校)として実現することになりました。
松岡と安田は吉武栄之進教授らとともに、東京高等工芸学校創立委員を嘱託され、1年近い準備の後に、念願の「東京高等工芸学校」の設置にこぎつけます。

戦前の東京高等工芸学校 戦前の東京高等工芸学校

工業製品を美しく、かつ機能的に創造する技術という意味で「工芸」と名付けました。工業と工芸の両方に力を入れて人材を育てなくては、日本の産業ひいては国力の発展は望めないと考えてのことでした。
そして、東京高等工芸学校で松岡は初代及び3代目の校長を、安田は4代目の校長を務めることとなります。

東京高等工芸学校のその後―附属高校と千葉大学へ

現在の田町キャンパス 現在の田町キャンパス

新しく設置された東京高等工芸学校は、芝浦の地(現在の田町キャンパス)で、1922年の学生受け入れ以来、27年近くにわたって有為な人材を世に送り出してきました。
しかしながら、1945年5月の空襲による火災で、校舎の大部分を失い、千葉県の松戸市に移転を余儀なくされます。そして、それは戦後の学制改革で千葉大学が設置される際の母体の1つとなり、工芸学部(後の工学部)として新たなスタートを切ることになります。
唯一焼け残った附属工芸専修学校は、附属電波工業学校とともに一度、千葉大学に移管されましたが、東京・芝浦の地にあったこともあり、やがて東工大に戻され、現在の附属科学技術高等学校(田町キャンパス)に至っています。
こうして、東京工業学校の工業図案科に始まる産業工芸の精神は、東京美術学校、東京高等工芸学校を経て、千葉大学や東工大附属科学技術高等学校へ受け継がれていきました。日本の近代デザインの歴史には、苦境に立たされながらも怯むことなく工業デザインの発展に尽力したパイオニアたちによる、東工大の足跡が確かに残されています。

(参考)東工大の沿革

(参考)東工大の沿革

1897.3 工業図案科 設置 ― 1914.9 廃止(東京美術学校に併合)

本稿は、本学資史料館が発行したリーフレットの内容を再構成し、掲載しています。