東工大への寄附

須山 英三様

寄附という形で母校に関われる幸せ

貧困を乗り越えて東工大に入学

私は旧制浜松工業専門学校(現・静岡大学)から東工大入学するまで実家のある静岡県の浜松市に住んでいました。稼業は「須山式織機製作所」という機織り機メーカーで、浜松では「鈴木式織機製作所」「遠州織機」と並び、指折りの機織り機械メーカーとして名を馳せていました。ところが、B29の空襲で家も工場も焼かれてしまい、食べるのもやっとの状態に陥ってしまいます。それでも、兄は東工大紡織科を1943(昭和18)年に卒業し、海軍予備学生から、海軍機関学校を終え、室蘭の魚雷艇隊で終戦を迎えて、家業を継ぎました。その背景には、母の妹の夫で、世界で初めてブラウン管に映像を映し出した「テレビの父」こと高柳健次郎が「これからは大学を出た方がいい」と父に助言した言葉が息づいています。

貧困を乗り越えて東工大に入学

それでも、私の旧制浜松工業専門学校後の進路については、父は私に「東京なんか行くな。浜松の学校であれば進学してもいい」と告げていました。実は、いとこが旧制第一高等学校の寮生だった際に、戦後の物資不足と貧困から栄養不良になり、東京から栄養補給のために私の実家まで来て、母の作った食事をしていたのを、父が見ていたのです。体があまり丈夫でなかった息子を東京で生活させたくないという親心だったのでしょう。
ところが、同級生が「東工大を受験するから一緒に受けないか」と声をかけてくれたのです。私は自信がないと一度断ったのですが、その友人が東京で泊めてくれるというので受験したら、なんと受かってしまって。合格後東工大OBである高柳に報告したところ、たいそう可愛がってくれたことを今でもはっきりと覚えています。

こうして晴れて私は4年制新制大学としての最初の東工大生となったわけですが、とにかくお金がなかったので、寮と大学との往復に青春時代を費やしていました。2年の時は高津の寮でしたが、3・4年時は現在工学部建築科がある場所に建っていた向岳寮というところにいましたので、ぱっと寮に帰って机に向かい、寸暇を惜しんで勉強していたことは、今となっては懐かしい思い出です。

1938(昭和13)年、叔父の高柳は、2年後に開催を控えた東京オリンピックのテレビ中継を実現するため、浜松工業高等学校からNHKに移りました。ところが、戦争が激しくなり、オリンピック開催が中止になってしまったんです。さらに終戦を迎え、今度はGHQがNHKに対してテレビ放送の研究自体を禁止したために、叔父は職業まで失ってしまいました。
それでも叔父はあきらめずにいろいろな企業と交渉し、日本ビクターに入社し、研究活動を再開することができました。

そうした時代を経て、いよいよテレビ放映が始まるという段になった1954(昭和29)年、私はTBSテレビジョン準備局に入社しました。東工大で真面目に勉強に勤しんだ成果が出たのは、ここからです。テレビ局の機材はすべてアメリカ製でしたので、取扱説明書は当然ながら英語。高卒の社員はまったく理解できない中、私は東工大在学時にMIT(マサチューセッツ工科大学)の教科書で学んでいましたので、英語の説明も問題なく機材を扱うことができたのです。こうした経緯から、TBSのフィルム送像の技術に大きく貢献することができたのは、まさに母校のおかげです。

部活動の支援からアジアの人材育成支援へ

部活動の支援からアジアの人材育成支援へ

私の父は、姉の夫(高柳健次郎の浜松高等工業の生徒)が創立した会社(浜松ホトニクス)に投資をしたのですが、父が亡くなった後に、その株式の一部が私にも分配されたのです。ならば、せっかくだからお世話になった我が母校に幸せのおすそ分けをし、後進の活動に役立てていただこうということで、これまでに何度か寄附をさせていただきました。その意味では、寄附には今は亡き父と兄の思いも込められていると言っても過言ではないでしょう。

我が家には、叔父がドイツで購入してきたツアイス・イコンのカメラがありましたので、私は小学生の頃から写真撮影をしていました。結果、趣味が昂じて東工大の3年生の時には写真部を立ち上げました。また、入学当時、山岳部に親しい先輩がいらして、体の弱かった私をよく山に一緒に連れて行ってくださったんです。おかげで、80歳を超えた今も体はいたって丈夫で、山登りの他にスキーなども楽しんでいます。そうした経緯もあって、当初寄附金の2分の1は東工大に、残りの2分の1を写真部と山岳部で折半して寄附させていただきました。

その後、アジアの人々にも手が差し伸べられないかと考え、3年前よりTAIST-Tokyo Tech(以下、TAIST(タイスト))というタイの人材育成プログラムに寄附を行っています。
もともとタイには、2001(平成13)年から5年間、私の息子がブリヂストンのタイ全体のセールスマネージャーとしてバンコクに赴任していたり、またタイではありませんが、私自身も2004年と2008年の2度ヒマラヤトレッキングでアジア大陸に足を踏み入れていました。が、直接のきっかけとなったのは、私の同級生柳沢 健君(現名誉教授)の20年後輩の教え子である西原教授がバンコクで人材サポートのリーダーをしていることを知り、ならばタイで有効に使ってもらえるプログラムに寄附しようと思ったことに起因します。開始当初は寄附額の2分の1をこのTAISTに充てていましたが、現在は現地スタッフとも親交が深くなり、アジア社会のさらなる人材育成に役立ててほしいと考え、本年度分より寄附の全額をTAISTで活用していただいています。

寄附という形で母校に関われる幸せ

今こうして母校の東工大に出入りさせていただけることは、私にとって最高に幸せなことなのです。ぜひ後進の育成支援に、有効に役立てていただければと思っています。そして、学生の皆さんには、とにかく寝食を忘れるほどに勉強に励んでほしい。後の人生に、必ずその努力の成果が花開きますから。

(インタビュー実施:2015年11月27日時点)