社会連携

東工大で益子焼

東工大でなぜ益子焼?

東工大の前身である東京高等工業学校窯業科を卒業し、後に民藝陶器で重要無形文化財保持者(人間国宝)となる濱田庄司(1894-1978)が居と窯を築いた地が益子であることは良く知られています。また濱田に憧れて東京工業大学に入学し、濱田を師として益子の地で修行を積んだ島岡達三(1919-2007)も後に人間国宝となりました。
一方では、東京職工学校から現在の東京工業大学に至るまでの近代日本の科学技術とものづくりの発展期に、教師と生徒、あるいは師弟関係によって連綿と形づくられてきた広範な人のつながりに着目することによって、陶芸家濱田、島岡が世に出る必然性と、東工大と益子との結びつきを捉えることもできるのです。

益子焼 窯の風景

1884年「窯業学」開講〜 ドイツ人教師 G・ワグネルの教え

ワグネル博士

 東京職工学校時代、ドイツ人教師G・ワグネル博士が化学工芸科において「窯業学」の科目を開講したのは1884年、次いで1886年にはワグネルの提議により「陶器玻璃工科」が設置されました。以来、東京工業学校時代の1894年に「窯業科」、東京工業大学となった1929年には「窯業学科」と名称を変更しながら、明治中期〜昭和にかけての日本の近代化を裏付ける工業技術の発展過程において、教育と研究の中心的役割を果たしてきた本学を象徴するように、近代陶業界の礎を築く人材の育成と技術発展を行う中心拠点となっていきました。

 ワグネルの下で学んだ陶器玻璃工科第一回卒業生の藤江永孝(1889年卒)は、公的には日本で最初の陶磁器研究機関である京都市陶磁器試験場の初代場長に1896年、32歳で就任します。また北村彌一郎(1890年卒)は、石川県工業学校陶磁器科長時代に結晶釉の製出に成功し、同校彫刻科教諭を務めていた板谷波山に製陶技術や化学を教え大きな影響を与えた人物です。平野耕輔(1891年卒)は、ワグネル没後、手島精一校長の推挙により助手となり後に教授、窯業科長となり、後には満鉄中央試験所窯業科長、商工省陶磁器試験所所長を務めました。窯業科長時代には、嘱託の板谷波山や中田清次らとともにドイツ・マジョリカの試作を行い、また嘱託の各務鑛三にはクリスタルガラス工芸を学ばせるなど、自ら開発した白雲陶器、陶試紅、高火度マジョリカ等を含め、ガラス工芸(業)・陶芸(業)の発展に大きく寄与しました。

 彼らをはじめとするワグネルの門下生たちは、日本各地で活躍し、次々と設立される工業学校の教師となり、試験場長となり、また陶器製造会社の設立に携わるリーダーとなるとともに、次なる世代の人材を育成していきました。

受け継がれるワグネルの遺伝子

1. 板谷波山

板谷波山

 近代日本の最初期における代表的陶芸家となる、板谷波山もワグネル門下生の指導を受けた一人です。板谷は、1894年東京美術学校彫刻科を卒業し、1896年石川県工業学校の彫刻科の教諭となった後、彫刻科の廃止に伴い移った陶磁科において、上述のように北村彌一郎の下で化学や釉下彩・結晶釉などを学び研究しました。後に東京高等工業学校に招かれ嘱託となった際には、田端に工房を構え、平野耕輔の設計と指導により三方焚口の倒焔式丸窯を築き、1906年の初窯の彩磁作品では早くも受賞しています。葆光釉・葆光彩磁の研究を進め1913年退職、作陶に専念し、1953年陶芸家として最初の文化勲章を受章しました。

2. 濱田庄司

濱田庄司

 その板谷に憧れ、東京高等工業学校の門を叩いた人物が、濱田庄司です。現在の川崎市高津区溝口に生まれ、幼少より絵画に親しんだ濱田は、府立一中時代に蔵書のルノワールの言葉に触れて工芸の道に進む志をもちました。1913年板谷波山が教鞭をとる東京高等工業学校へ進学し、そこで2学年先輩の河井寛次郎と出会いました。当時、板谷家で益子の山水土瓶を見て益子を知りました。
卒業後の1916年に河井の勤める京都市陶磁器試験場に就職し(前年まで藤江永孝が場長を務めていた)、職を辞するまで1万種に及ぶ釉薬の研究に没頭しました。この間、度々上京しバーナード・リーチや柳宗悦と交流をもち、1920年にはリーチに誘われ渡英、西南部のセント・アイヴスに登窯を築いて本格的に作家活動を始め、3年後には初の個展をロンドンで開催し高い評価を得ました。英国の田舎の暮らしや営みに大きな感動を覚え、1924年の帰国後には、東京の近くにありながら田園風景のなかにある、乱れぬ確かな暮らしに惹かれ、益子に住むことを決心しました。
1925年柳や河井と共に、人々の暮らしと営みから生まれた「無名の陶工たち」による品々に美を見出し、それらを民衆の工藝の意で「民藝」と名付け、以後、主に益子と沖縄を拠点に、自らの作陶を以てそれを体現していきました。

3. 島岡達三

島岡達三

 同じく益子での思索と作陶を通じて「縄文象嵌」という独自の美を編み出した島岡達三は、旧制府立高校三年生の時に、日本民藝館で出会った河井寛次郎や濱田庄司の作品に感動し、民藝の陶芸家への道を決意しました。1939年東京工業大学窯業学科に入学し、翌年益子に濱田を訪れ、卒業後の入門を許されました。太平洋戦争を経てビルマから復員後の1946年に濱田に師事します。師から「早く自分の個性あるものを」を言われ作陶を続けるなか、組紐師の父の作る絹の組紐を転がしできる縄目に白土を埋め込む「縄文象嵌」の技法を完成させ、力強く美しい作品が国内外の個展にて高い評価を得ました。

  • 益子焼 島岡龍太
  • 益子焼 萩原芳典
  • 益子焼 佐久間藤也

 現在の益子では、濱田をきっかけに集まった多くの作家や陶芸を志す人々が作陶に打ち込み、多様な表現を生み出し続けています。東京工業大学無機材料工学科を1967年に卒業した村田浩も活躍中の一人です。昔ながらの益子の糠白釉を用いた作品は、表情も肌触りも一体となったやわらかさを表しています。

特別展示2012「東工大で益子焼~知る・ふれる・つかう~」

会 期
2012年10月18日(木)〜10月28日(日)
 
 
10:00〜17:00(初日は13:00より、23日は20:00まで)
会期中無休・入場無料
会 場
東京工業大学博物館・百年記念館 1階展示室
主 催
東京工業大学博物館
共 催
益子陶芸美術館、(公財)濱田庄司記念益子参考館
後 援
朝日新聞社、大田区教育委員会、(社)蔵前工業会、下野新聞社、
東京工業大学窯業同窓会、益子町、目黒区教育委員会(五十音順)

 この度の展示は、上述のとおり、ワグネルより始まり無機材料工学科へと繋がる東工大における窯業ーセラミック技術教育研究の歴史のなかで、濱田や島岡が巣立った東工大とその活躍の地である益子との深い関係がきっかけとなっています。 現在の益子では、陶芸という成熟した技術と表現が一体となって、時代や暮らしの変化の中で多様性を増し、発展を続けています。それは、土や釉薬が土地の材料でつくられ、うつわとなり、それらが店先に並び、購買され、食卓でつかわれる、あたりまえの日常を構成する確かな営みによって支えられているものです。
 1899年、第2代校長 手島精一が東京工業学校に工業図案科を設置した際には「いかに卑近な工業製品にもデザインが必要である」という趣旨を述べています。また柳や河井、濱田は民藝において、ものをつくるということはいかなることか、良いもの美しいものとは何かを思考しました。
現在の益子焼を知り、ふれて、つかうというテーマのこの展示では、15人の気鋭作家を招き「益子を東工大にもってくる」ことで、絶えることなく続く焼物づくりの中で思考され続けてきたものづくりの今に触れることのできる機会となります。

 また、この展示は、東日本大震災によって窯や家屋が大きな被害を受け、一時は陶器づくりを中断せざるを得ない状況に追い込まれた、益子の応援となり、産業、文化の復興への一助となることを願っているものです。

文: 遠藤康一 (東京工業大学博物館)