大学院で学びたい方
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世界を創るテクノロジー
脳が活動する際に発生する、微弱な電気信号である脳波[用語1]。この脳波や脳神経由来の信号をもって脳と機械を接続し、自由に機械を操作するブレイン・マシン・インターフェース(BMI)の開発が、現在世界中で盛んに行われている。AIを活用して脳波の複雑な規則を解読し、脳波から体の動きや耳にした音声を再現することに成功した吉村奈津江教授。膨大な生体信号をより分け、非常に小さく不規則な脳波を見つけて解き明かす、ロマンに溢れたテクノロジーの世界へようこそ。
(吉村)「脳活動信号を計測し、その情報を利用して脳とコンピュータを接続するBMI技術は、人体への負担の程度、つまり侵襲性の観点から頭蓋骨の開頭を伴う侵襲型と手術を要しない非侵襲型の2種類に分けられます。前者は、脳の限定的な部位から直接信号を計測できるため脳情報の抽出精度がより高く、欧米を中心に開発競争が盛んです。対して後者は人体へのリスクが低いものの、詳細な情報を解読できるほどの精度が得られないという課題があります。非侵襲型BMIにはMRIや近赤外分光法、脳波などが計測に活用されますが、侵襲型と比べ総じて計測・解析の難易度が上がり、とりわけ頭皮脳波からの脳情報抽出はほとんど不可能とされてきました。
ですが私は、誰もが自分の脳の状態を手軽に把握できるようにという思いのもと、非侵襲型の可能性を広げようと研究を進めてきました。主に用いているのが、脳波から脳内の神経活動を機械学習により推定し、情報を抽出する手法です。根気よく試行を繰り返した結果、2021年には、頭皮に貼り付けた電極を用いて記録した脳波から、ヒトが一度聞いて、脳内で思い浮かべた『ア』『イ』の2種の母音の発音を第三者が認識可能な音として再現することに成功しました」
「外界からの刺激を処理し、体を動かし、思考し、感情を生み出す脳。その仕組みをいかに読み取り、機械によって再現するか。人々の未来の生活様式を変え得る、限界の無い研究分野です」
学部卒業後、複数の企業勤務を経て、2006年 東京医科歯科大学大学院医歯学総合研究科修士課程修了。2009年 電気通信大学大学院博士課程修了。博士(工学)。東京工業大学男女共同参画推進センター助教、同大精密工学研究所准教授・科学技術創成研究院准教授を経て、2023年より現職。Motor Control 研究会理事、日本生体医工学会・日本神経科学学会所属。
(吉村)「BMIではこれまで、手や足の不自由な人が脳で機械を操作し、より快適な生活を送るための技術の確立を目的とする研究が主流でしたが、非侵襲型BMIはそのリスクの少なさから健常者の健康管理にも応用できると考えています。体温計のような手軽さで老若男女が脳をモニタリングして、自分の体や心の不調をいち早く見つけられるようになれば、人生100年時代を自立して暮らす環境づくりに大きく寄与するでしょう。
私の研究に対するモチベーションは、自分の脳の中、まだ見たことのないものを見たいという衝動です。その一心で勤めていた企業を退職し、脳の情報解析やプログラミングを一から学ぼうと決めました。大学卒業後、10年経ってからのことです。当然苦労もしましたが、ある意味門外漢だった私には、脳波は情報抽出が難しいという先入観がなかったからこそ臆さず挑戦でき、今の成果につながりました。今後も自分の可能性を決めつけず、知的欲求に素直に従って、まだまだ未知の世界が広がる脳の情報処理を解き明かしていきます」
MRIの一種であるfMRI(機能的磁気共鳴画像法)を用い、頭部をスキャンして脳活動を可視化する。吉村研究室で使用される方法。
頭をすっぽりと覆うようなヘッドマウント型デバイスを装着し、頭皮から脳の信号を間接的に計測する。吉村研究室で主に使用される方法。
頭蓋骨に穴をあけて脳の特定の部分に数ミリ程度の大きさの電極を埋め込み、神経細胞から発せられる電気信号を計測する。
外科的手術により頭蓋骨を開き、多数の電極が作り込まれた数センチ程度の大きさのシートを脳表面に乗せて、大脳皮質からの信号を計測する。
人間の脳はおよそ1,000億個の神経細胞(ニューロン)によって構成されている。感覚器官などからの刺激を受けるとニューロン同士が電気信号を伝達させて情報処理を行うが、この電気的活動を記録した波形が脳波だ。脈拍や心拍・心電、筋肉の収縮により発せられる筋電などと同様に、ヒトの生体信号の一つである。1875年、イギリスの科学者リチャード・カートンによって初めて動物の脳に電気活動があることが報告され、1924年にはドイツの精神科医ハンス・ベルガーが、ついにヒトの大脳皮質から活動電流を記録した。その5年後、ベルガーはこの活動をElectroencephalogram(脳波)と名付けて発表した。
脳波は身体が刺激を受けてからのレスポンスが比較的速く、頭皮から計測可能であるという利点もあり、解析しようとする試みが多数行われてきたがなかなか実用化に至らなかった。理由は、非侵襲型における脳波計測・解析の難しさにある。頭皮に付けた電極から脳波を計測する場合、筋電や周囲の電子機器の電波など計測段階では除去しづらい大きなノイズが含まれ、信号強度が非常に小さい脳波の抽出を妨げてしまう。さらに、脳波の波形規則が脈拍や心拍のように明快ではなく、特定の情報を表す脳波を判別することは困難を極めるのだ。2000年代以降はAI技術を利用して脳波を解析する動きがあるが、前述した高い壁は依然として研究者の行く手を阻んでいる。
吉村教授は非侵襲での脳情報解析におけるパイオニアとして、運動や聴覚・発話、感情といった情報の解読に取り組み、筋活動、指の動きなど数々の身体行動を脳波から抽出することに成功してきた。特に、2021年に吉村教授が発表した「聞こえた音、思い出した音を脳波から音で再現する技術」は、脳機能領域の解明へと脳科学を前進させ、BMIのような将来のアプリケーション開発の道を切りひらく可能性を示唆している。本研究では、2つの母音「ア」と「イ」を聞いた時の脳波から機械学習と深層学習によって音声の周波数の特徴を表すパラメータを推定、そのパラメータから音源を復元する新技術が示された。第三者が耳で聞いて判別できるほどのクリアな音声の復元は当時侵襲型の手法でもほぼ例を見なかった中、非侵襲型手法を用いた音声復元で8割程度の判別が可能になっているのは、驚異的である。
「脳波による情報抽出の問題点であった空間分解能[用語2]の低さをAIによる計算処理で改善し、音声の再現に至りました。1つの元データから揺らぎ[用語3]を生成する新しいデータ拡張技術を採用することによって、深層学習を利用する前提としてAIに学習させるサンプルを多数用意しなければならないという点もクリアできます。従来は復元した音が『ア』なのか『イ』なのかを単に識別するまでが主流でしたが、音声の波形自体を再現し、明瞭な音として捉えられる可能性が確認できたため、個人ごとに異なる頭の中の音声の再現につながり得ると考えられます。目下、『ア』『イ』以外の音声を再現する機械学習モデルの開発にも取り組んでいます。さらに、今回採用した深層学習は解析原理のわからないブラックボックスではなく、脳のどこで音声を聞いて思い出すか、その経路を調べられるものです。ヒトの発声に使われる言語野の場所はこれまでも概ね解明されていましたが、実は個人差が大きく、正確な特定が難しいと言われていました。ですが、脳全体の信号を広く推定できる非侵襲型の計測の利点を生かして、脳内の聴覚・音声・言語処理の評価が可能になる効果が今後期待されます」(吉村)
頭皮から脳波を計測する際は、脳波キャップという複数の電極を配置した帽子状のデバイスを使用することが多い。吉村研究室では64個の電極が付いた脳波キャップを主に用いており、電極と頭皮の間に専用のジェルを入れてぴったりと密着させ、計測する脳波信号の品質を向上させる。少し前までは、正確な信号を得るために頭皮の皮脂をあらかじめ削る準備が必須だったが、実験参加者の快適さを加味し、より使いやすいように脳波キャップの種類が多様化してきた。計測精度を保ったままデバイスを小型化する研究も世界的に進んでおり、手軽に個人が脳波を活用する未来へ向け、ハード面でも技術革新が目覚ましい。
BMIの応用研究は医療分野で先行している。BMIは登場した早期の段階から、四肢麻痺患者の運動・リハビリ支援、ALS(筋萎縮性側索硬化症)患者の意志伝達手段などに活用されてきた。一方で、BMIを各種産業に活用し、新たなビジネス領域の開拓を目論む「ブレインテック」への注目も急速に高まっている。ブレインテックはBrain(脳)とTechnology(技術)を掛け合わせた造語で、脳科学は日に日に身近になりつつあるのだ。だが、その多くは脳内にデバイスを埋め込むような侵襲型のBMIである。吉村教授の開発する非侵襲型の技術は、安全性の高さから医療はもちろん社会全体に恩恵をもたらすだろう。
「これまで研究してきた脳波からの情報抽出を応用し、誰もが手軽に脳の状態をチェックする未来を想像しています。脳機能の低下を個人が早期に発見、かつゲーム感覚でケアをできるように。また、運動情報の抽出はエンタメの領域にも応用できるでしょう。VRをコントローラーでなく脳で操作したいという要望を実際にいただくこともあります」(吉村)
吉村研究室では学生のどんなアイデアも否定せず、内側から湧いてくる好奇心をエネルギーに変えていく。彼らによる知的で有機的なつながりは、まるで彼らが研究対象としている脳波信号のようだ。発生しては交錯し、全貌は計り知れない。しかし、未来への可能性が途方もなく広がっている。
脳波計測実験では、その信号の小ささゆえに、いかにして実験段階でノイズを除去するかということに研究者たちは頭を悩ませてきた。以前は、まばたき厳禁で単純な実験課題をこなすのが通例だったが、ノイズを脳波と分ける分析手法の発展により、その常識はもはや昔のものになろうとしている。吉村研究室では、ジャグリングのトレーニング中の脳波検証を行うことによって、運動制御に関する脳内情報処理機構の理解を目指す研究が目下行われている。
用語説明
[用語1] 脳波 : 脳によって引き起こされる波のような信号である脳波は、大脳皮質から計測を行うものと、頭皮から計測を行うものの2種類に大別される。後者がElectro-Encephalogram(EEG)である。「脳波」と呼称される場合、一般的にEEGの方を指していることが多い。
[用語2] (脳波計測における)空間分解能 : 脳内で発生した信号を頭皮上で計測する際に、その信号がどれだけ正確に特定の脳領域や神経活動源から発生しているかを示す指標のこと。
[用語3] データの揺らぎ : データ間の予測の不確実性やばらつき。ここでは同じ情報であるとAIが認識できる範囲内でパターンを変えたデータのこと。
本インタビューは東京工業大学のリアルを伝える情報誌「TechTech ~テクテク~ 44号(2024年3月)」に掲載されています。広報誌ページから過去に発行されたTechTechをご覧いただけます。
(2023年取材)