研究

量子化学とAIで再生可能エネルギーの新材料を追い求める ― セルゲイ・マンゾス

顔 東工大の研究者たち vol.45

量子化学とAIで再生可能エネルギーの新材料を追い求める ―セルゲイ・マンゾス量子化学とAIで再生可能エネルギーの新材料を追い求める ―セルゲイ・マンゾス

vol. 45

物質理工学院 応用化学系 准教授

セルゲイ・マンゾス(Sergei Manzhos)

再生可能エネルギー技術の重要性は広く認識されている。より環境に優しい未来の実現には、太陽光パネルや燃料電池などのデバイスを活用し、大容量で柔軟性のあるエネルギー供給網を作り上げなければならない。これらの技術を経済的にも環境的にも持続可能にするには、まだまだ多くの研究が必要だ。
東京工業大学 物質理工学院では、さまざまな研究室で社会のエネルギーニーズに対応するための研究が進められている。そのひとつである伊原・Manzhos研究室では、セルゲイ・マンゾス准教授が理論とモデリングの両面から、材料科学分野での研究に精力的に取り組んでいる。とくに、次世代の再生可能エネルギーや関連技術開発のために、量子化学と人工知能(AI)を駆使してシミュレーションプロセスの加速化や材料の改良を推進している。

幅広いアプローチの原点

マンゾスは、カナダ、シンガポール、そして母国であるウクライナの大学で学び、研究を続けてきた。東工大での研究は、彼にとって日本での2度目のキャリアになる。それぞれの国の大学で過ごした時間や経験に価値を見出しつつも、日本のアカデミアが自分に適していると考え、2021年から東工大に在籍している。物理学と無線電子工学の分野で学位を取得した後、化学、数学、計算モデリングへと研究領域を広げてきた。

セルゲイ・マンゾス准教授

「私の経歴は、少し広すぎると思われるかもしれませんね」マンゾスはこう話す。「でも毎日の取り組みがとても幅広いものなので、世界各国で取り組んできたことのすべてが、日々の研究に役立っています。効率的に動作するアルゴリズムを使用して、より正確に現実を反映させたシミュレーションができるようなモデリング手法を開発することもそのひとつです。これには新たな太陽電池や燃料電池の材料開発といった特定の用途が想定され、これらの分野の専門知識も必要になってきます。もちろん、私の同僚も私自身も、基礎理論の構築に長い時間を費やしていますが、他の分野にも影響して研究の方向性が決まっていきます。そのような理論的分野のひとつが量子化学です」

「量子化学という言葉は、実在する研究というよりもSF映画か何かで出てくる言葉のように感じられるかもしれません」とマンゾス。量子化学とは、量子論を使って化学現象を記述する、確立された分野である。このアイデアの源となっているのは、元素を質量や電荷などの固体としてとらえる古典的な考えでは、化学物質を使った材料について予測できる特性が限られてしまうということにある。量子論を用いると、材料の特性をより精度良く予測することができ、光の吸収や伝導度、振動スペクトルといった古典的なアプローチではとらえられない特性を評価することが可能になる。原子や分子の性質や構造を、量子力学の原理に基づいた計算から予測する量子化学計算は、実験することなくパソコン上で行うことができるため、高効率な材料探索が可能であり、材料の研究開発において非常に有用な技術であるとされる。

材料科学におけるAIの利用とさらなる可能性

「私たちは量子化学を使って、太陽電池パネルや燃料電池、蓄電池などの電気デバイスや構成要素のシミュレーションを行っています。ただ、量子化学に基づくシミュレーションの場合、一般に計算が複雑で負荷がかかるのが問題です。この問題に対して、私たちは、既存のアルゴリズムを改良し、量子化学をコンピューターに実装するための違った方法を見出そうとしています」とマンゾスは語る。「一般的には、線形代数(行列計算)と呼ばれる数学的手法のアルゴリズムを使います。私たちはこのアルゴリズムをプログラミングする新たな方法を探り、必要な演算のための計算ステップ数を削減しつつ要求通りの精度で合成シミュレーションができるようにします。線形代数を用いる分野は幅広く、画像解析のような分野も入ってきますので、これは材料科学以外の分野にも応用できます。しかしコンピューティング分野で最もインパクトがあるのは、もちろんAIです」

材料科学におけるAIの利用とさらなる可能性

AIは目に見える形でも間接的な形でも、私たちの生活に影響を与えている。メディアではどこか神秘的で理解し難いもののように取り上げられるため、AIの本質が覆い隠されてしまうことも多い。たしかに簡単ではないが、AIがパターンを特定し、アウトプットやデータ、意思決定を生み出すための高度に洗練された方法であることを理解すると、AIが材料科学のような分野でどのように役立つかがわかるようになる。マンゾスの率いるチームでは、電力網のモデル生成、材料特性の予測、シミュレーションの改良といった用途でAIを利用している。取り扱うデータは次元が高く、データの種類も多岐にわたる。互いに影響し合う変数も多い。このような用途にAIは役立つ。従来の技術では困難、あるいは不可能であった大規模かつ異種混在の可能性のあるデータセットに含まれる見えない情報を発見できる可能性があるためである。

「例えば、あるエネルギー供給網の単位時間当たりの消費電力の予測を考えてみましょう。最小の値としては10ワット、1個のLED電球でしょうか。この数値は、一世帯の電気消費量の1%にも満たない程度です。この場合のAIによるモデリングでは、高い精度は必要ありません」マンゾスは続ける。「ただし、私たちが取り組んでいるような、量子化学をベースにしたモデリング手法をAIで改良するといった用途では、100倍の精度が必要です。私たちの研究では、現行のAIで達成できる限界にいつもぶつかります。ですから、ニーズに対応するため、既存のアルゴリズムを適用しながら、革新的なアルゴリズムを開発するのです。そしてそれは他の分野にも利用できます」

基本プロセスの改良は広く恩恵をもたらす

マンゾスは当初、古典的な方法では効率的な解が得られない問題を解決する手段として、AIに注目した。原子間ポテンシャルと呼ばれる関数がその一例である。これは、ある分子が何らかのプロセスで別の形に変換できるエネルギーをどれだけ持っているかを計算するのに必要な関数である。この関数が役に立つ身近な例として、温度変化によって膨張したり収縮したりする物質を作り出す場合が挙げられる。しかしこれらの関数では(単純で精度のあまり高くない近似値で解決しようとしない限り)長時間かけて網羅的に解を探索するため、多くの計算時間やエネルギーがかかる。この部分をAIで代用することが可能である。機械学習の利点は、研究者があらかじめモデルを決めなくても解を作り出せることである。

分子内の電子波動関数分布(等値面として表示)
分子内の電子波動関数分布(等値面として表示)

ポテンシャルエネルギー地形(等値面として表示)において、リチウムイオンが固体電池の電解質を移動する様子
ポテンシャルエネルギー地形(等値面として表示)において、リチウムイオンが固体電池の電解質を移動する様子

しかし、次元が大きくなるにつれ、問題はさらに困難になる、いわゆる「次元の呪い」に突き当たる。これは、信頼できるモデルの構築に必要なデータ量が指数関数的に増えていく現象だ。マンゾスのチームでは、高次元空間のわずかなデータでも信頼性の高いモデルの構築を可能にする新たな機械学習アルゴリズムを開発している。このアルゴリズムは、ニューラルネットワーク、ガウス過程回帰、そして高次元関数を低次元の項で表現するフレームワークHDMR(高次元モデル表現)というアプローチの組み合わせである。

マンゾスはこの他にも、AIを産業界や政府機関向けのエネルギー消費のモデル化などに応用している。こういったエネルギー機関が対処すべき課題に対しても、マンゾスらの研究グループは貢献している。その他の応用研究としては、より現実的な長さスケールに適用できる量子スケールでのシミュレーション性能の改良がある。例えば、医療開発に不可欠なタンパク質の折り畳みといった、量子現象の表現を探索する科学分野がある。量子モデリングに一般的に使用される方法のひとつに、密度汎関数理論(DFT)[用語1]があるが、かなり計算コストがかかる。マンゾスは、この方法が現在広く使われているにもかかわらず、材料のモデリングのボトルネックになっていることを指摘し、これに代わる手法を探っている。

最近、マンゾスらは機械学習に基づき改善したDFTの代替手法、密度汎関数強束縛法(DFTB)[用語2]を提案し、シリコン/ペロブスカイトタンデム太陽電池において重要な材料であるSi/SiOx/TiO2の界面計算に応用した。マンゾスらは、界面における数千個の原子をモデリングするのはDFTでは不可能だが、DFTB法であれば比較的簡単に計算できること、さらにこの改良により、DFTB法がさらに幅広い材料に適用可能となったことを示した。

これまでのDFTのような方法で限界を感じていた分野でも、新しく高価なハードウェアを使うことなく、さらに詳細な材料モデリング研究が可能になる。世界中の多くの人にとって、費用のかかる方法は手が届かないが、この研究手法ならば取り入れやすい。

マンゾスらのチームでは、大規模なDFT法を開発するためにアルミニウム(Al)、マグネシウム(Mg)、シリコン(Si)結晶の運動エネルギー密度をモデリングした。マンゾスらのチームでは、大規模なDFT法を開発するためにアルミニウム(Al)、マグネシウム(Mg)、シリコン(Si)結晶の運動エネルギー密度をモデリングした。

マンゾスらのチームでは、大規模なDFT法を開発するためにアルミニウム(Al)、マグネシウム(Mg)、シリコン(Si)結晶の運動エネルギー密度をモデリングした。

基礎的な研究と学際的な研究の重要性

「私たちのチームの研究が他の用途でも役立つことを願っています。もちろん、新たなアルゴリズムを世界に向けて提案することには価値がありますし、それによる再生可能エネルギー技術の重要性を明らかです。ただ、基礎材料研究のための量子化学への私たちの取り組みは、目に見えない形でも役に立つと考えています」とマンゾスは語る。「例えば、きっと驚かれると思うのですが、世界有数の工業大国である中国では、最近になってようやくボールペンの先端を作る専門技術を獲得しました。些細なことで当たり前と思われるかもしれませんが、先端ボールを実際に製造するには冶金学と生産技術の専門知識が必要なのです。鋼鉄の内部で何が起きているかを理解するための重要な要素は、メタバースの時代には退屈なことのように思われるかもしれません。でも、これは21世紀になってようやくわかったことなのです。私が言いたいのは、新たな産業や製品を生み出すには、たとえそれが概念的には単純なものであったとしても、極めて基礎的な研究が必要であるということです。また、基礎的な研究が日常的に重要なモノや現象に関係していることもよくあるのです」

マンゾスらのチームの取り組みがさまざまな場面で利用できるのは、その核心を成すものが非常に学際的であり、これまでに挙げたように多くの分野を組み合わせてできているためである。量子化学に限らず、世界中の多くの研究グループが、異分野の研究に一貫性を持たせる方法として学際的なアイデアを受け入れ、より総合的なアプローチによる研究を進めている。

マンゾスは言う。「研究は縦割りで行うものではありません。細部に焦点を当てるだけでは今日の課題は解決できず、もっと広い文脈で物事を考える必要があります。私はこれまでさまざまな分野で仕事をしてきましたし、興味の幅を広く保ったまま、キャリアを築く機会にも恵まれました。それぞれにおいて必要な部分では詳しくなりましたが、一般化しすぎたり、狭く具体化しすぎたりすることなく取り組んできました。研究をこのように行うには、ある種の機敏さと柔軟性が必要です。私にはとても心地よいやり方ですが、この環境は、学生にとってもやりがいがあってやる気を起こさせるものだと思います」

学生が自分の可能性を発見するための戦略

セルゲイ・マンゾス准教授

伊原・Manzhos研究室では、マンゾスが材料のモデリングを担当し、同じく物質理工学院の伊原学教授が材料から再生可能エネルギーシステムまでの実験を担当している。それぞれのアプローチがシナジーを起こし、新たに参加した人にも幅広い研究の機会を提供している。「私たちの研究は多くの分野が積み重なっています。これは前途ある有望な学生にとって、魅力的なポイントだと思います」とマンゾスは続ける。「私たちの研究室では、学生やキャリアの浅い研究者も自分に合った目標や分野を見つけることができます。実際、私たちはこれから研究を始める人たちに対して、ラボを自由に見て回りいろいろ試してみて、何ができるかを探求するよう働きかけます。これは彼らが自分の可能性を発見するための戦略なのです。実験をする方向に興味が湧くかもしれませんし、デスクワークを好んで理論的な問題に取り組むかもしれません。私たちのラボは、さまざまなタイプに対応でき、これは研究の進め方の違いに反映されるかもしれません。基本的に、学生はジェネラリストとして参画し、時間とともにスペシャリストになっていきます。このような方針が、私自身がそうだったように、次世代に良い刺激を与えられることを願っています」

伊原・Manzhos研究室がある環境エネルギーイノベーション棟について、マンゾスはこう述べる。「ひとつ確かなのは、この棟がインスピレーションの源だということです。ここでは、私たちの核となる価値観が物理的な構造物として表されているのです。太陽電池パネルを外壁に配置し、燃料電池技術を統合したこの棟は、私たちが研究してきた、より抽象的なアイデアを具現化するのに役立っています。お近くに来たらぜひお立ち寄りください、一見の価値があります」

伊原学教授が設計に携わった環境エネルギーイノベーション棟は、4,570枚もの太陽電池パネルで覆われている。“エネスワロー”というスマートエネルギーシステムにより、分散型電源を効率よく運転できるほか、リアルタイムデータに基づく独自の電力予測モデルによりピークカット制御を行っている。

伊原学教授が設計に携わった環境エネルギーイノベーション棟は、4,570枚もの太陽電池パネルで覆われている。“エネスワロー”というスマートエネルギーシステムにより、分散型電源を効率よく運転できるほか、リアルタイムデータに基づく独自の電力予測モデルによりピークカット制御を行っている。

用語説明

[用語1] 密度汎関数理論(DFT) : 物理や化学で使われる、原子や分子の中の電子の挙動を理解するための計算方法のひとつである。個々の電子の複雑な波動関数の代わりに、DFTでは電子密度、すなわち空間における電子の分布によって系全体のエネルギーを記述する。DFTからは、分子構造や反応エネルギー、材料の電子的特性に関する貴重な洞察を得ることができる。

[用語2] 密度汎関数強束縛法(DFTB) : 量子力学的手法のひとつで、材料の電子構造や物性のシミュレーションに用いられる。強束縛アプローチとは、電子間相互作用を近似化することにより電子構造の計算を単純化する方法である。DFTBではこの方法をもう一歩進め、電子密度関数による近似を導入することで、従来の強束縛法よりさらに正確な電子構造の記述が可能になる。

セルゲイ・マンゾス准教授

セルゲイ・マンゾス(Sergei Manzhos)

物質理工学院 応用化学系 准教授

  • 1999年ハルキウ国立大学 無線物理学 修士課程 修了
  • 2004年カナダ クイーンズ大学 博士課程 修了、博士(化学)取得
  • 2005 - 2007年モントリオール大学 化学科 ポストドクトラルフェロー
  • 2008 - 2010年東京大学 化学システム工学科 特任助教
  • 2010 - 2012年東京大学 先端科学技術研究センター(RCAST) 特任助教
  • 2012 - 2019年シンガポール国立大学 機械工学部 助教
  • 2019 - 2021年カナダ ケベック大学州立科学研究所 エネルギー・材料・電気通信研究センター 准教授
  • 2021年 - 現在東京工業大学 物質理工学院 応用化学系 准教授

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2024年3月掲載

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東京工業大学 総務部 広報課

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