要約
東京工業大学大学院理工学研究科の安藤真教授と松澤昭教授は日本無線、NEC、アムシス(東京都大田区)などと共同で、光ファイバーネットワークと無線ネットワークのシームレスな接続を可能とする毎秒1ギガビット(1Gbps)の「38GHzミリ波帯固定無線アクセス(FWA)システム」(用語1)を開発した。
研究の内容,背景,意義,今後の展開等
高効率の小型アンテナ、 64QAM変調方式(用語2)が使える高性能アナログ/デジタル(A/D)変換器など多くの要素技術を結集し,通信速度を従来の約12倍の1Gbpsに向上させるとともに4kmの長距離伝送を達成した。
無線での幹線接続を担うFWAはこれまで通信速度が毎秒80メガビット(80Mbps)と遅く、光ファイバーネットとのシームレス接続は困難だった。同システムの開発は、シームレス接続の実現とともに、ミリ波帯の周波数資源を開拓したもの。携帯電話基地局の基幹無線回線などに利用することで、近年の電波利用ニーズの増大による周波数資源の逼迫状況を緩和できるほか、敷設が容易なので災害時の素早い超高速無線ネットワーク構築が可能となる。
研究の背景
スマートフォンの爆発的な増加などによる近年のIPネットワークの世界的な規模拡大と、これに付随したアプリケーションサービスの多様化から、ネットワークの大容量化が求められている。これは、光ファイバー網だけでなく、設備の敷設が容易で災害時に復旧の早い無線ネットワークについても同様である。一方、携帯電話をはじめとする移動体通信や無線LANなどの公衆サービスが普及したため10GHz以下の無線周波数が逼迫しており、既存の周波数帯を使用する限り、これ以上の広帯域化、大容量化は困難な状況にある。
研究の成果と意義
そこで、東工大と日本無線などは、広い帯域が確保できるミリ波帯に注目し、ミリ波帯で使えるさまざまな機器やデバイスの開発を行った。
主な開発技術は (1)ミリ波帯の特質を生かした高空間アイソレーション送受信別体小型アンテナ (2)超高速かつ高分解能なA/D・D/A変換器や多値QAM変復調回路を搭載したベースバンド信号処理システムLSI (3)高能率送信電力増幅窒化ガリウムモノリシックマイクロ波集積回路(GaN-MMIC) (4)超低雑音増幅インジウム・リン(InP)MMIC (5)広帯域周波数変換ガリウム・ヒ素(GaAs)MMIC(用語3) (6)I/Q直交変復調用(用語4)シリコン・ゲルマニウム(SiGe)MMIC(用語5)―などである。
これらのデバイスを統合し、シンボル伝送速度(用語6)毎秒200メガシンボル(200Msps)、シングルキャリア(用語7)TDD(時分割複信)方式(用語8)、かつ最大変調方式64QAMで動作する、38GHzミリ波帯固定無線アクセスシステムを実現した。同システムは1Gbpsの実効伝送速度(上下回線を合わせた伝送速度)で動作させることができ、最大通信距離は4kmである。
東工大大岡山キャンパスに12回線を設置して無線ネットワークを構築し、屋外伝送実験を行い、性能を確認した。現在、100mから最大4000m程度の通信距離で無線回線を配置した無線ネットワークで、ミリ波帯での降雨の影響や長期的な安定性を確認し、ミリ波帯無線システムの有効性の実証を継続して行っている。今後は同システムの実用化を目指すとともに、ミリ波帯通信の普及を目指した研究を進めていく。なお、本研究は総務省の委託研究「電波資源拡大のための研究開発」の一環として実施した。
技術内容
システム概要
このシステムは、光ファイバーネットワークなどの有線ネットワークと無線通信システムのシームレスな接続を行うことで、有線系インフラが整備されていない地域や光ファイバーケーブルの敷設が困難な場所、あるいは被災地においても、迅速かつ容易に高速回線を構築可能とすることを目標としている。
システムを実証するため、実験的に採用した無線周波数帯は38GHz帯で、日本ではFWAシステム用に割り当てられた帯域である。今回、通信方式はシングルキャリアTDD方式、変調方式はQPSK、16QAM、64QAMに対応し、64QAM運用時に最大実効伝送速度は1Gbpsである。また、本システムは,TDD方式と適応的に帯域を制御することで、実効的に周波数利用効率を向上するとともに、降雨減衰などにより受信搬送波と雑音の比(CNR)が得られ難くなった場合でも、変調多値数を64QAMから16QAMあるいはQPSKへ適応的にシフトすることで、雨天時にも数kmまでの通信を維持することが可能である。
同システム試作装置の外観を図1、システムの主要諸元を表1にそれぞれ示す。

図1 試作装置外観写真

参考資料
ミリ波帯固定無線アクセスシステムを実現するために開発した主要な技術と屋外実験の概要を以下に示す。
ミリ波帯小型アンテナ
アンテナ構成として、図2に示すような送受信用アンテナをそれぞれ具備する2面アンテナ構成を採用した。一般に、TDD方式では同一無線周波数で送受信を実現するため、アンテナ端に送受信切り替えスイッチを設け、1つのアンテナを送受信で共用する構成を用いる。
これをミリ波帯に適用する場合、送受信切り替えスイッチの挿入損失が大きくなり、結果として、その分のシステムゲイン(用語9)を失うか,もしくは送信電力増幅器の出力電力を増大させる必要がある。そこで、ミリ波帯ではアンテナや導波管バンドパスフィルタ(用語10)が小さくなることを利用して、送受信用のアンテナをそれぞれ設け、それら2面アンテナ間の空間アイソレーション(用語11)を送受信切り替えスイッチの代用とする構成を採用した。これにより、送受信切り替えスイッチの挿入損失がなくなり、送信電力増幅器の動作点を緩和するとともに、受信雑音指数を改善することができた。
また、本構成では,無線周波数チャネルを有効に利用するため、同一偏波方向に2つのアンテナを並列配置した。アンテナを偏波直交させなかったため、2面アンテナ間の空間アイソレーションを確保することが難しいものとなるが、両アンテナの間に遮蔽壁を設けるなどの工夫を施し、システム設計のうえで必要な65dB以上の高い空間アイソレーションを実現した。

図2 高アイソレーション送受信別体型アンテナ
超高速高分解能A/D変換器
変調の多値化を向上させることで同一信号帯域であっても通信速度を上げることが可能である。しかし、より高い信号対ノイズ電力比(SNR: Signal to Noise Ratio)が必要であり、より高分解能なA/D変換器が必要になる。同システムは64QAMを用いるため,分解能10ビット、変換周波数400MHzのA/D変換器が求められ、さらにベースバンド信号処理システムLSI(用語12)に2個搭載するため,40mW程度の低消費電力動作が必要である。
このような性能要求に対しては高利得の演算増幅器を用いたパイプライン型A/D変換器(用語13)が適しているが、微細化に伴い高利得の演算増幅器を実現することが困難になってきた。したがって、従来のままでは性能を満足することは困難なことから、図3に示すような、一対の増幅器を用いて、その出力間の信号電圧を容量を用いて補間する「補間パイプライン型A/D変換器」と名付けた新たなA/D変換方式を開発した。この方式では高利得の演算増幅器が不要であるので微細CMOSプロセスに適しており、超高速・低消費電力動作も可能になった。この変換方式を用いたA/D変換器を開発することで十分低い誤り率で64QAMを用いて伝送速度を向上させることができた。

図3 超高速高分解能A/D変換器の構成
ベースバンド信号処理システムLSI
今回、シングルキャリアTDD方式の超高速多値QAMバースト変復調回路を搭載するシステムLSIを開発し、64QAMの変調方式で、上下帯域合計の実効伝送速度1Gbps超を実現した。図4にシステムLSIの機能ブロック図を示す。図に示すように、このシステムLSIは,超高速多値QAMバースト変復調回路以外に、MAC回路(用語14)や管理・制御用CPUなどのベースバンド信号処理回路を1チップ化したことにより、装置を小型化した。
また、キーコンポーネントのひとつであるA/D変換器・D/A変換器についても本システムLSIに内蔵し、10ビット400Msps のA/D変換器、12ビット800Msps のD/A変換器という高速かつ高分解能な性能を実現した。さらに高速動作するA/D・ D/A変換器の高分解能性能を維持するため、システムLSIに内蔵するクロック生成用PLL回路の低ジッタ化(クロック周期のゆらぎの低減)を図り、64QAMにおいても良好な性能を得た。図5に完成したシステムLSIの外観と内部チップ、表2にシステムLSIの主要諸元をそれぞれ示す。本システムLSIは、CMOS 90nm技術で実現し、チップ外形は5mm×10mmである。

図4 システムLSI 機能ブロック図

図5 システムLSI 外観(左)と内部チップ(右)

ミリ波帯無線回路
無線回路についても、装置全体のコンセプトである小型化に向けて合理化した。回路面積が比較的大きくなりがちなIF 帯周辺回路のうち、I/Q 直交変復調回路については、SiGe バイポーラプロセスを用いたMMIC として開発し、可変利得機能も同一チップ上に形成した。
また、IF 帯からRF 帯の周波数変換回路についても、送信側局部発振器のリーク抑圧や受信側でのイメージ抑圧、送受信の利得制御に必要なステップ減衰器などを内蔵するとともに、それぞれの局部発振器の入力部に周波数4 逓倍回路を組み込むなど、無線システムとして必須となるRF 帯回路機能をGaAs-HEMT(高電子移動度トランジスタ)3 次元MMIC 技術により、周波数変換MMIC として実現した。特に、このMMIC の実装法としてはCSP 構造(用語15)を採用して、MMIC 実装に伴う回路面積も抑えている。
また、最長4km の長距離回線構成対応のため、送信出力増のための高能率の電力増幅用GaN-MMIC と受信機雑音低減に向けた超低雑音増幅用InP-MMIC を開発し、本装置内への組込実装に成功した。1kmを超える回線での運用試験に供している。開発したI/Q直交変復調SiGe-MMICと周波数変換GaAs-MMIC、電力増幅GaN-MMIC、超低雑音増幅InP-MMICを図6、図7、図8、図9にそれぞれ示す。

図6 I/Q直交変復調SiGe-MMIC

図7 周波数変換GaAs-MMIC

図8 高能率電力増幅GaN-MMIC

図9 超低雑音増幅InP-MMIC
屋外実証試験
現在、同システムは東工大大岡山キャンパスに、通信距離100m から最大4000m 程度の全12 回線をメッシュ状に構築し、屋外での実運用試験を開始している。図10 に無線回線の設置状況を、図11 に設置写真をそれぞれ示す。また、降雨時における通信距離3.7km での時刻に対する降雨量と受信電力、及び回線品質と等価となる復調後の等価CNR と変調方式の関係を図12 に示す。降雨によって、受信電力が低下した際に変調方式を64QAM から16QAM へ下げ、また、受信電力が上昇した際には16QAM から64QAM へ上げる動作で、無線接続を維持できることが分かる。

図10 無線回線設置状況

図11 装置設置写真

図12 降雨における無線回線挙動例
用語説明
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用語1
- 固定無線アクセスシステム
- 無線システムの一種。ITU-Rの勧告などではFWA(Fixed Wireless Access)システムと呼ばれているが、日本では加入者系無線アクセスシステムとも言う。主にオフィスや家庭といった一般の加入者と通信事業者側交換網との間を直接接続(収容)する無線システムの総称である。特に、固定無線アクセスシステムの基地局・端末といった無線装置はそれぞれ特定の箇所に固定して利用され、設置移動には工事・調整などを要する場合もあるため、携帯などの移動アクセスシステとは区別される。また、携帯などの基地局を幹線網に接続させる目的の中継系無線システム(エントランスシステム)とも機能は類似するが、電波法規上厳格に区別されている。
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用語2
- 64QAM変調方式
- 変調方式の一種。直交位相関係にある2つの搬送波(直交搬送波)の振幅と位相を利用して変調を行う直交位相変調方式の一種であり、2つの搬送波に対して同時に8段階(値)の振幅変調を施す事により、64の振幅位相値を信号情報として伝送する比較的周波数利用効率の高い高能率な変調方式である。例えば、BPSKと呼ばれる一つの搬送波に対して位相の反転情報のみで伝送する単純な方式に比べると6倍の伝送容量を持つ方式となっている。
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用語3
- GaAs -MMIC
- シリコンよりも電子移動度が高い(5倍以上)ガリウムヒ素半導体をベースとし,アンドープ基板の抵抗率が非常に高い(シート抵抗値が数 MΩ)半絶縁性基板上に、受動素子(伝送線路、抵抗、容量、インダクタなど)を集積して作った回路あるいは、さらに複数の機能をもつ回路を集積・構成した回路のこと。電子移動度が高いことから、マイクロ波帯以上の周波数帯に好適である。
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用語4
- I/Q直交変復調
- 変調及び復調方式の一種。I/Q直交変調とは、独立な2つの信号(Iチャネル,Qチャネル)を0度及び90度位相がずれた搬送波と乗じた後、加算することで変調波を得る方式を指す。逆に、I/Q直交復調とは、受信した変調波を0度及び90度位相がずれた搬送波とそれぞれ乗じることで、元の独立な2つの信号に分離することができる方式を指す。
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用語5
- SiGe -MMIC
- SiGeは,シリコンにゲルマニウムを添加することで電子の動きが速くなり、動作が高速化されることを利用したトランジスタで、シリコンのみを用いた場合よりも低ノイズでより高速なトランジスタを実現できる。電子移動度は Siの1.5倍、基板価格は GaAsの1/5程度である。MMICはこのトランジスタ形成技術をベースとして、受動素子(伝送線路、抵抗、容量、インダクタなど)を集積して作った回路あるいは、さらに複数の機能をもつ回路を集積・構成した回路のことである。
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用語6
- シンボル伝送速度
- 無線装置において、1回の変調で得られる変調シンボルを送信する速度のことであり、1秒あたりに伝送する変調シンボル数で表す。
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用語7
- シングルキャリア方式
- 通信方式の一種。無線で情報を伝送する際には、搬送波と呼ぶ高い周波数の電波で変調を行うが、このとき、変調に1つの搬送波(I/Q直交変復調に用いる直交搬送波は2つの搬送波として見えるが90°の位相差を持つ2つの搬送波であり、システム的には1つの搬送波を取り扱っていることになる)を用いる通信方式をシングルキャリア方式と呼ぶ。シングルキャリア方式に対して、複数の搬送波を用いる通信方式をマルチキャリア方式と呼ぶ。
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用語8
- TDD方式
- 同時双方向通信方式(複信方式)の一種。Time Division Duplexの略で、時分割複信と訳す。送受信で同じ周波数を時間分割して双方向通信を実現する方式のこと。
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用語9
- システムゲイン
- 無線回線設計上の無線装置に係る便宜上の相対パラメータである。即ち、無線機には,方式に従う形で、その通信維持に必要となる所要C/N(信号レベル/不要雑音)という概念があり、この所要C/Nを確保するに当たってマージンとして働く無線装置のパラメータを主に係る無線システムの持つシステムゲインと称している。例えば、アンテナの利得や送信出力、受信機雑音といった量がそれを直接意味する事が多く、アンテナ利得や送信出力が上がればシステムゲインは増加することになり、また受信機雑音を下げることによってもシステムゲインを確保したことになる。また、FECなどによるエラー訂正機能が作用することで所要C/N自身が軽減される場合もシステムゲインを得たことになる。さらに、専門的な内容としては、無線機の不完全性そのものによって等価的な背景雑音の上昇(C/(N+Nd))を被ることもあり、この場合、システムゲインを失ったという表現を使う。
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用語10
- 導波管バンドパスフィルタ
- 導波管バンドパスフィルタとは、入出力口が導波管形状で、この入出力口からのフィーダー導波路とフィルタ特性を形成するための多段キャビティー(共振空洞)とを直結させた構成のバンドパスフィルタを意味する。一般に、導波管によるフィルタ回路は、ストリップラインなどの誘電体サスペンド型のものに比して低損失で急峻な周波数特性をもたせることが可能であり、無線回路とアンテナとの間に挿入することによって、送信要スプリアスの抑圧や、受信側での不要スプリアス入射による影響低減などを図ることができる。
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用語11
- 空間アイソレーション
- 送信と受信を行う2つのアンテナ間の分離度のこと。本システムでは2つの導波管スロットアンテナを用い、主ビーム方向、偏波とも同一に密着配置した場合にも、送信アンテナからの回り込みによる受信電力を送信電力に対し約-65dB以下に抑圧することに成功した。このため、隣り合う送信アンテナからの強い送信電波を受けることなく、遠方対向局からの微弱な電波を受信することができる。通常のアンテナでは回り込み電力が本システムの100倍程度大きいため、送信と受信は交互にしか行えない、あるいは通信可能距離が1/10となるという制約があったが、本システムでは4kmの通信を送受同時に動作させることが可能となる。
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用語12
- システムLSI
- システム全体を集約収容させた大規模集積回路の総称。マイクロプロセッサを含み,組み込みシステムの主要な回路を1チップに集積したものを呼ぶことが多い。システムオンチップ(System-On-Chip)とも呼ばれ,SoCとも略される。
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用語13
- パイプライン型A/D変換器
- 従属に接続された単位A/D変換ステージからなり,各単位A/D変換ステージはそれぞれの入力信号電圧と参照電圧を比較してA/D変換ビットを得るとともに,その差分を定まった利得倍してパイプライン的に次段に転送することで,順次A/D変換ビットを得るアナログ信号をデジタル信号に変換するA/D変換器。
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用語14
- MAC
- LANなどで利用される伝送制御回路。Media Access Control回路の略。IEEE 802系のLANの場合、OSI参照モデルのデータリンク層(第2層)の下位副層にあたり、フレームの送受信やフレーム形式、誤り検出回路などの機能が含まれる。
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用語15
- CSP構造
- CSPとはChip Size Packageの略で、チップと同じサイズでのパッケージ実装ができるという特徴がある。例えば、チップをパッケージ本体にフェースダウン実装し、チップ電極をバンプ接続にてパッケージ側パターンに直接接続、さらにパッケージ本体をスルーホールで貫通して、パッケージ裏面にある半田接続用電極に繋ぐといった構造にすることで実現できる。チップ端子から実装基板までの実効インダクタンスを低く抑えることができるため、マイクロ波やミリ波系のMMICなどの実装に好適と考えられ、近年、多用される傾向にある。