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岩田聡氏を悼んで

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公開日:2015.08.04

本学卒業生である任天堂社長の岩田聡氏が7月11日に永眠されました。謹んでお悔やみ申し上げます。

同氏は、北海道の高校を卒業後、1978年に東京工業大学工学部に入学し、在学中よりゲームソフト制作会社「株式会社ハル研究所」でアルバイトを始めました。1982年に情報工学科を卒業後、同社に入社しました。

その後、「星のカービィ」シリーズなどを制作し、天才プログラマーと称され、1993年に同社社長に就任しました。2000年には、任天堂株式会社に入社し取締役に就任、「ニンテンドーDS」「Wii(ウィー)」を発売するなど経営者としても手腕を発揮しました。

岩田聡氏
岩田聡氏(写真提供:任天堂株式会社)

時代に先駆け、新しい時代を切り開いていった稀有な人材で、本学の卒業生としては異色の経歴の持ち主でした。同氏の若すぎるご逝去を悼むと共に、本学内外で同じ時を過ごした方々に同氏の思い出を語ってもらいました。

工学部時代の同級生 植松友彦教授(大学院理工学研究科通信情報工学専攻)

岩田君とは、1978年に5類に入学したときに名簿の順番が近いこともあり、すぐに知り合いになりました。電気工学実験では同じ班だったこともあります。いち早くプログラミングに取り組んでいた岩田君は、国産の一体型パーソナルコンピュータであるMZ-80KやPC-8001が発売される前に、Commodore社のPET2001を所有して、日夜その腕を磨いていました。当時のパソコンは高価で、電気系でも持っていた学生は10名以下だったと思います。同じアパートに住む同級生は彼のコンピュータでゲームを楽しんでおり、彼の部屋を「ゲームセンター岩田」と呼んでいました。

岩田君は、ソフトウェア関係の授業やプログラム実習では抜群の才能を発揮しており、同級生の間では、彼がプログラムを誰よりも早くかつ正確に書くことが知れ渡っていました。私もソフトウェア関係の授業で分らないことがあると彼によく聞いていました。

ゲーム会社に就職した後、任天堂の社長に就任したことは知っていたのですが、卒業後は長い間会う機会がなく、結局2012年の卒業30周年同期会で再会できたのが最後になりました。活躍を期待していたのですが残念でなりません。岩田君のご冥福を心よりお祈りします。

同じ研究室の先輩 佐伯元司教授(大学院情報理工学研究科計算工学専攻)

岩田聡君は、私が博士課程の学生だった頃、1981年に卒業研究で工学部情報工学科榎本肇研究室に配属されてきました。

当時同研究室では、画像処理、プログラミング言語などの研究を行っており、同氏は、タブレット上にペンで数式を手書きし、超小型コンピュータ(マイクロコンピュータ)で認識させる研究を行い、当時としてはすばらしい性能を誇るプログラムを開発してくれました。

今、思いますと、任天堂の大ヒット商品であるニンテンドーDSの「1つの画面上にペンで手書き入力を行う」という機能の原型ともいえる研究をやっていたのだなと、同氏の先見の明にあらためて感服している次第です。

研究室内でも明るく、同級生の面倒見もよく、任天堂で発揮したリーダーシップの片鱗を当時より発揮しておりました。今後、日本の世界に誇るゲーム業界のみならず、IT業界までも牽引していってくれるものと思っておりましたが、あまりに早すぎる逝去に残念でなりません。心よりご冥福をお祈りいたします。

ハル研究所でのアルバイト仲間 松岡聡教授(学術国際情報センター先端研究部門)

37年前、高一時代の放課後は池袋西武デパートのPET2001を中心としたマイコン販売コーナーにてゲームプログラミングに勤しむ毎日でしたが、かの地で東工大の新入生だった岩田氏と出会い、直ぐに意気投合しました。二年後には彼を含むその仲間が中心となってゲーム関連の開発会社であるHAL研究所が設立され、浅草橋のマンションの一室が「開発室」となり、皆泊まり込みで初期の8ビットパソコン・MSX・そしてファミコンのゲームソフト開発に明け暮れました。後に自分が博士課程に進学し研究に専念する為HAL研究所を離れる時、岩田氏は「自分はゲーム業界できっと成功するが、松岡も必ず研究者として成功するだろう」と言ってくれました。その時彼はともかく自分はまさか、と思っていましたが、様々な偶然を経て現在、自分が彼の卒業校の情報系の教員となったのは今思えば驚きです。

その後の彼の活躍は、その際立った先見の才を発揮して時代を創ったという点で「和製ビル・ゲイツ」というべきですが、それ故早逝されたのは本当に残念でなりません。心からご冥福をお祈りするとともに、彼のような逸材を再び育むのが、今の自分の大きな役目であると感じております。

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