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ナノスケール量子計測からリン脂質の動きを捉えることに成功

創薬に向けた細胞診断への応用に期待

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公開日:2021.02.24

要点

  • 薄い膜状にしたダイヤモンド量子センサーで、細胞の反応をつかさどる脂質二重層(細胞膜)中のリン脂質分子の動きをラベルフリー計測できる手法を開発。
  • 量子センサーで脂質二重層中を動くリン脂質をナノNMR(~6 nm3)により計測し、リン脂質分子の動きを示す拡散係数を計測できることを実証した。
  • ありのままの細胞膜におけるリン脂質の分布や動きを計測できる分析技術や、創薬候補を探索するための基盤技術への応用が期待される。

概要

東京工業大学 工学院の石綿整研究員(科学技術振興機構(JST)さきがけ研究者兼務)、慶應義塾大学大学院理工学研究科の渡邉宙志特任講師(量子コンピューティングセンター所員)および大阪大学大学院理学研究科の花島慎弥准教授らは、ダイヤモンドをセンサーとして用い、わずか5 nmの厚さの脂質二重層(細胞膜)[用語1]を構成するリン脂質の動きを計測することに成功した。麻酔薬など薬物に対する細胞の反応はその7割以上が細胞膜と呼ばれる細胞を囲んでいる外側~5 nmの微小領域で始まっていることから、現在統計的に判断されている細胞の薬物反応の原理解明にはこの微小領域を高感度かつラベルフリー[用語2]すなわち「ありのまま」に解析する細胞診断技術の開発が必須である。

研究グループは、ダイヤモンド窒素-空孔中心[用語3](以降NVセンタ)を用いたナノNMR[用語4]と呼ばれる技術に着目した。ダイヤモンド中に窒素と欠陥により構成されるNVセンタは、細胞内部の温度を1℃以下の精度で測定するなど、生命現象を精密計測するナノ量子センサーとして注目されている。このセンサーの最大の特徴はそのサイズ(~1 nm)にあり、非常に小さいサイズを持つことから観測対象に対して10 nm以下の距離で高感度量子計測を行うことが可能である。観測対象近傍での計測からセンサー表面ごく近傍の限られた微小領域(~6 nm3)における物質の磁性(核スピン)を計測することが可能となる。そこで、細胞膜に見立てた薄い脂質二重層中を出入りするリン脂質の核スピンを計測するために、薄い膜状にしたセンサー上に脂質二重層を形成する技術を確立し、センサー表面から10 nm以下の検出範囲で量子計測を行ったところ、脂質二重層中のリン脂質分子の動きを示す拡散係数[用語5]を計測することに成功した。

今回開発したナノNMR技術は、従来の生体計測のように蛍光分子で人工的に修飾したリン脂質分子ではなく、高感度かつラベルフリーでありのままの細胞膜中のリン脂質分子の動きを計測できることから、リン脂質分布や動きを制御するメカニズムの解明、リン脂質移動と疾患の関係を調べるための細胞診断技術につながることが期待される。

本研究はドイツの科学雑誌Advanced Quantum Technologies(アドバンスト・クァンタム・テクノロジーズ)のEarly Viewオンライン版に2月19日(現地時間)に公開された。また、同紙2021年Issue 4(2021年4月公開)に表紙として掲載予定である。

背景

現在の創薬開発における大きな課題の一つとして薬を投与された際に細胞がどのように薬に対して反応しているかを解明することが挙げられる。麻酔薬などの薬物に対する細胞の反応はその7割以上が細胞膜と呼ばれる細胞を囲んでいる5 nm程度の微小領域で始まっていることから、現在統計的に判断されている細胞の薬物反応の原理解明にはこの微小領域を高感度かつラベルフリーに解析する技術の開発が必須である。

炭素により構成されるダイヤモンド結晶中に、窒素とそれに隣あった空孔が形成されることにより、NVセンタと呼ばれる量子状態が形成される。このNVセンタが持つ量子状態は磁場や温度など周囲の環境情報に反応し、その状態変化は光の信号として読み取ることが可能である。NVセンタの生体応用の最大の特徴はそのサイズ(~1 nm)にあり、このサイズを利用した応用としてCVD合成[用語6]を用いてNVセンタを観測対象近傍10 nm以下の領域に形成することで高感度な微小領域の計測が可能となる。

本研究では、このNVセンタを用いた微小領域解析法であるナノNMRを用いてラベルフリーに細胞膜の基本構成要素である脂質二重層中のリン脂質分子の動きを計測し、わずか5 nmの厚さの脂質二重層(細胞膜)を構成するリン脂質の動きを計測することに成功した。

研究成果

本研究では、NVセンタの特徴である微小領域の核スピン解析技術と温度計測を組み合わせることにより、微小領域における脂質二重層相転移計測の実証を試みた。ダイヤモンド中のNVセンタを表面から10 nm以下の領域にCVD法を用いて形成し、そのすぐ上に脂質二重層を形成する技術を確立した。高感度ナノスケール量子計測を用いることで脂質二重層の微小領域を出入りする核スピン計測からリン脂質分子の拡散係数を算出した。

リン脂質分子の拡散係数を求めるにあたっては、微小領域における核スピンダイナミクスを検証するためモンテカルロ法[用語7]による2次元分子拡散モデルを作成した。MD(分子動力学)シミュレーションによるナノ秒スケールのダイナミクス計算と組み合わせることで、拡散係数を唯一のパラメーターとして導き出した。

NVセンタを用いた量子温度計測の一つであるT-echo法[用語8]により確認された26.5℃と36.0℃において相関分光法[用語9]による計測結果とシミュレーションを組み合わせ、26.5℃から36.0℃に温度を変化させることにより、拡散係数の値が1.5 ± 0.25 nm2/μsec(1μsecは100万分の1秒)から3.0 ± 0.5 nm2/μsecに変化していることが分かった。この結果は、これまで大量の生体サンプルを必要としてきたラベルフリー計測の報告と一致していた。このことから、今回確立したナノNMR技術を用いた量子センサー技術により、細胞膜に見立てた薄い脂質二重層の微小領域を出入りするリン脂質の動きをラベルフリーで計測することに成功したことが実証された。

図1. ナノスケール量子計測を用いた脂質二重層相転移計測のイメージ図

図1. ナノスケール量子計測を用いた脂質二重層相転移計測のイメージ図

図1. ナノスケール量子計測を用いた脂質二重層相転移計測のイメージ図

(赤)ダイヤモンド中のNVセンタ
(ピンク)NVセンタにより計測される微小領域
(青)リン脂質分子により構成される脂質二重層

図2. ナノスケール量子計測を用いた脂質二重層相転移計測のイメージ図

図2.
  • (a)相関分光法による計測結果
    (黒)相関分光法計測結果
    (赤)拡散係数1.5 ± 0.25 nm2/μsecを用いた2次元分子拡散モデルの結果
  • (b)26.5℃と36.0℃における計測結果と2次元分子拡散モデルの比較
    26.5℃の結果と拡散係数1.5 ± 0.25 nm2/μsecを用いた2次元分子拡散モデルの結果が一致しており、36.0℃の結果と拡散係数3.0 ± 0.5 nm2/μsecを用いた2次元分子拡散モデルの結果が一致している。

今後の展開

今回、ナノNMRを利用した生体分子計測として、細胞反応をつかさどる細胞膜のリン脂質の動きを捉えられることを実証した。NVセンタナノスケール量子計測を用いた脂質二重層相転移計測は、ありのままの細胞における脂質二重層(細胞膜)の計測を可能にする。麻酔薬など薬物に対する細胞の反応はその7割以上が細胞膜と呼ばれる細胞を囲んでいる外側~5 nmの微小領域において決定している。現在統計的に判断されている細胞の薬物反応の原理解明や創薬候補探索には、この微小領域を高感度かつラベルフリーに解析する技術の開発が必須である。今後イメージング技術と組み合わせることで、細胞の応答を決定するラフト[用語10]など、生体の様々な高次構造体の計測への応用が期待され、さらには麻酔薬等のリン脂質移動と疾患の関係を調べるための細胞診断技術につながることが期待される。

付記

本研究は、科学技術振興機構(JST)戦略的創造研究推進事業 さきがけ「量子技術を適用した生命科学基盤の創出」研究領域 研究課題名「NVセンタデルタドープ薄膜による生体分子の機能・相互作用解析」(JPMJPR17G1)平成29年度採択(研究者:石綿 整)および研究課題名「量子化学効果を取り込んだタンパク質のシームレスな動的解析法の開発と応用」(JPMJPR17GC)平成29年度採択(研究者:渡邊 宙志)、文部科学省光・量子飛躍フラッグシッププログラム(Q-LEAP)(JPMXS0118067285, JPMXS0118067395)の支援を受けて行われた。

用語説明

[用語1] 脂質二重層(細胞膜) : 細胞の表面近傍から5 nm程度の領域に存在するリン脂質により構成される二重層。細胞における脂質二重層を細胞膜と呼ぶ。

[用語2] ラベルフリー : 一般的な生体計測のほとんどが蛍光プローブと呼ばれる蛍光分子を利用して計測されている。生体に対して蛍光分子を混入することにより、構造変化や質量変化が起きてしまうことから蛍光分子が無い状態での計測への関心が高い。ラベルフリーはこの蛍光分子を含まない状態での計測に対する一般的な名称である。

[用語3] ダイヤモンド窒素-空孔中心 : ダイヤモンド中の窒素と欠陥により構成されるカラーセンター。マイクロ波を用いた室温でのスピン状態制御が可能であり、そのスピン状態を光学的に読み出すことができる。細胞内温度計測や高感度磁場センシングなど様々な生体応用が期待される。

[用語4] ナノNMR : 表面近傍から10 nm以下の領域にNVセンタを形成することで微小領域(~6 nm3)に存在する核スピンが持つ統計偏極を計測する手法。

[用語5] 拡散係数 : 媒質中での粒子の拡散の速さを表す比例定数。

[用語6] CVD合成 : Chemical Vapor Deposition合成の略称。反応系分子の気体、あるいはこれと不活性のキャリヤーとの混合気体をプラズマや加熱により活性化させた状態で基板上に流し、化学反応による生成物を基板上に蒸着させる合成法を言う。今回は、水素とメタンガスと窒素による気相での化学反応によってダイヤモンドの結晶を成長させた。

[用語7] モンテカルロ法 : モンテカルロ法は、求める値が複数の確率変数の関数(数値モデル)で表現できるとき、各変数で仮定される確率分布に沿った標本値の乱数を利用して大量に生成して、演算を多数回試行し、その結果から求める値の分布を得る方法である。

[用語8] T-echo法 : NVセンタを用いた温度計測法の一つで、通常二つのエネルギー準位を利用して計測する温度を三つのエネルギー準位を利用する特徴がある。

[用語9] 相関分光法 : マイクロ波パルスシーケンスを用いてスピン-スピン緩和時間を伸長し、計測感度を最適化することで計測した結果を時間軸上で二度計測し、その計測結果を比較することで二つの計測結果の位相差を導き出す方法。

[用語10] ラフト : 細胞膜上の膜ミクロドメインの一種。膜を介したシグナル伝達、細菌やウイルスの感染、細胞接着あるいは細胞内小胞輸送、さらに細胞内極性などに重要な役割を持つ機能ドメインである。

論文情報

掲載誌 :
Advanced Quantum Technologies
論文タイトル :
Label-free phase change detection of lipid bilayers using nanoscale diamond magnetometry
著者 :
Hitoshi Ishiwata(責任著者), Hiroshi C. Watanabe, Shinya Hanashima, Takayuki Iwasaki and Mutsuko Hatano
DOI :

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