東工大ニュース

所望の香りの印象を実現するセンシングデータの探索

IT技術を利用した香り創作に期待

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公開日:2022.09.05

要点

  • 匂い印象のスコアから対応するセンシングデータを探索する方法を世界で初めて提案
  • センシングデータを更新しながら目標とする匂い印象を探索する逆問題を解くアプローチを採用
  • センシングデータに対応する香りを合成することで、所望の香りを創作するIT技術の実現に期待

概要

東京工業大学 科学技術創成研究院 未来産業技術研究所の中本高道教授と工学院 情報通信系の長谷部大祐大学院生(研究当時)らの研究チームは、所望の匂い印象に対応するセンシングデータを探索する方法を世界で初めて提案した。

デジタル嗅覚技術の分野ではこれまで、分子構造パラメータ[用語1]等を利用して匂い印象を予測する研究が行われてきた。一方で、匂い印象からセンシングデータを予測する研究はまったく行われてこなかった。

そこで本研究では、所望の香りに対応するセンシングデータを探索するために、センシングデータを更新しながら目標とする匂い印象を探索するという逆問題[用語2]を解く手法を提案した。この手法を用いて、10種類の香気物質について匂い印象を与えたところ、マススペクトル(質量分析器[用語3]から得られるデータ)をほぼ正しく推定できることがわかった。

センシングデータが得られればそれに対応する香りを作り出せるため、今後はこの研究成果をもとに、ITを利用した香り創作が可能になると期待される。

本研究成果は、8月17日付の「PLOS ONE」に掲載された。

背景

これまで嗅覚はIT技術との接点が少なく、デジタル嗅覚技術は十分に確立されているとはいえない。しかし近年、分子構造パラメータを入力して深層学習を使用することにより、「匂い印象」を予測する方法がいくつか提案されている。この匂い印象は、複数の記述子(Fruity, sweet等)の官能検査[用語4]スコア数値で表される。しかし、これらの方法はすべて単一の香気分子にしか用いることはできず、複数の香気分子の混合臭には適用できなかった。

本研究チームはこれまでの研究で、匂い印象を予測する新たな方法として、マススペクトルを入力して、深層学習により匂い印象を予測する方法を提案してきた(図1)。マススペクトルは線形重ね合わせが成り立つため、香りを調合してもそのマススペクトルを容易に得ることができる。この方法は現在のところ、混合臭の匂い印象予測が可能な唯一の方法である。研究開始当初は予測精度があまり高くなかったが、最近では予測精度が向上してきたため、今回の研究では次の段階として、所望の香りに対応するセンシングデータを得る方法を提案した。

図1 マススペクトルから匂い印象を予測する仕組み

図1. マススペクトルから匂い印象を予測する仕組み

研究成果

本研究で提案する方法では、匂い印象からマススペクトルを直接予測する写像関数を求めるのではなく、マススペクトルから匂い印象を求めるモデルをベースにして、逆問題を解くアプローチを提案した(図2)。その理由は、匂い印象からマススペクトルへの写像は必ずしも1:1写像にはならないためである。

匂い印象からセンシングデータを取得する仕組みは次のような流れになる(箇条書きの番号は図2中の番号に対応する)。ここでのMS(マススペクトル)特徴ベクトルは、マススペクトルデータから次元圧縮して抽出した特徴ベクトルである。匂い印象としては、21種類の匂い記述子に当てはまる度合いを0~1の連続値で表現した官能試験データを用いた。また、センシングデータとしては、質量分析器から得られるデータ(マススペクトル)を用いた。

1.
MS特徴ベクトルの初期値ベクトルを設定する。
2.
DNN(Deep Neural Network)を使用して匂い印象を得る。DNNはMS特徴ベクトルから匂い印象が得られるように学習済である。
3.
実現したい匂い印象スコアを匂い記述子空間に入力する。
4.
損失関数(匂い印象の目標値と予測値の誤差)の勾配を計算する。
5.
得られた勾配にもとづき、MS特徴ベクトルを更新する。
6.
更新後のMS特徴ベクトルにもとづき、匂い印象を更新する。
7.
4 〜 6を繰り返して、4において損失関数が最小となるMS特徴ベクトルを求める。
8.
MS特徴ベクトルから元となるマススペクトルを復元する。

匂い印象からマススペクトルを予測する仕組み(D. Hasebe et al. PLOS ONE, 2022 より、和訳のため一部改変)

図2.
匂い印象からマススペクトルを予測する仕組み(D. Hasebe et al. PLOS ONE, 2022 より、和訳のため一部改変)

次に、10種類の香気物質を対象として、本手法の適用前と適用後のMS特徴を分析し、主成分分析法[用語5]により可視化した(図3)。この分析結果では、各香気物質が本手法の適用前後でグラフ上のほぼ同じ位置にきている。このことから、損失関数の勾配を使用する方法によってMS特徴ベクトルが正しく求まっていることがわかった。

10個の香気物質を対象とした、本手法の適用前後のMS特徴の主成分分析結果(D. Hasebe et al. PLOS ONE, 2022)

図3.
10個の香気物質を対象とした、本手法の適用前後のMS特徴の主成分分析結果(D. Hasebe et al. PLOS ONE, 2022)

次に、記述子「fruity」のスコアを3倍にしたときのりんご臭のマススペクトル(図4(a))と、59の分子で再構成したそのマススペクトル(図4(b))を比較した。その結果、両者がほぼ等しくなったことから、得られたセンシングデータは複数の香りを調合することにより再現可能であることがわかった。

りんご臭の匂い印象を変更したときのマススペクトル。(a)記述子”Fruity”のスコアを3倍にしたときのマススペクトル、 (b)59の分子で再構成した場合のマススペクトル。(D. Hasebe et al. PLOS ONE, 2022 より、一部改変)

図4.
りんご臭の匂い印象を変更したときのマススペクトル。(a)記述子"Fruity"のスコアを3倍にしたときのマススペクトル、(b)59の分子で再構成した場合のマススペクトル。(D. Hasebe et al. PLOS ONE, 2022 より、一部改変)

社会的インパクト

匂い印象から対応するセンシングデータが得られれば、そのセンシングデータに対応する香りレシピも得られる。そうすると、調香師など専門家の手を経ずに所望の香りを瞬時にその場で作り出せるようになる。ITエンジニアは、香りの知識がなくても自身のコンテンツに香りを容易に使用できるようになるので、嗅覚情報がITの中にさらに浸透すると考えられる。

今後の展開

現段階では数値計算による研究にとどまっているため、今後の研究では実際に香りを作成して、人が匂いを嗅いで確かめる必要がある。そうなれば、その先の段階として、AI嗅覚ディスプレイ[用語6]を実現することにより香り創作のための様々な作業ができるようになる。AIスピーカでは人間の音声を認識してコマンドを読み取り、ホームオートメーションのいろいろな作業ができる。嗅覚の世界でAI嗅覚ディスプレイが実現すれば、「もっと香りを甘くして」、「もっとさわやかな香りにして」というようなユーザの要求を満たす香りを瞬時に発生できるようになると期待される。

付記

本研究の一部は科学研究費基盤研究A(21H04889)の助成を受けた。

用語説明

[用語1] 分子構造パラメータ : 分子の特徴を表すパラメータ。分子量、沸点等各分子は数千のパラメータを持つ。

[用語2] 逆問題 : 入力から出力を求める問題を順問題といい、逆に出力から入力を推定する問題。

[用語3] 質量分析器 : 分子をイオン化してその質量スペクトル(マススペクトル)を測定する機器。

[用語4] 官能検査 : 人間がどのように感じるかを調べる検査。アンケート調査にもとづいて行う。

[用語5] 主成分分析法 : 多次元のデータを次元圧縮して少数の次元のデータに変換する最も一般的な方法。多次元データの可視化によく用いられる。

[用語6] 嗅覚ディスプレイ : 香りを人に提示するデバイス。

論文情報

掲載誌 :
PLOS ONE
論文タイトル :
Exploration of sensing data to realize intended odor impression using mass spectrum of odor mixture
著者 :
Daisuke Hasebe, Manuel Alexandre, Takamichi Nakamoto
DOI :

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