卒業生の方

退職に寄せて(2020年3月定年退職者からのメッセージ)

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公開日:2020.03.31

2020年3月をもって定年退職となる教職員から寄せられたメッセージをご紹介します。

トラウマ?サイオウガウマ?

理学院 教授(化学系) 鈴木啓介

今は昔(約50年前)、当時2月頃の風物詩は朝夕のNHKニュースが伝える国立大学の倍率であった。日々変化する数字の中で、40倍を超えるというトンでもない東工大の倍率(何類だったんでしょう?)は、中学生の自分にトーコーダイ=異次元世界との感覚を定着させた(トラウマ#0)。

数年後、縁あって東大に入学し、紆余曲折の末に進学した本郷で出会った一生涯の恩師が故・向山光昭先生、当時、東工大から移って来られたばかりであった。“研究で世界に勝つ!”という情熱的な講義はあたかも黒船来航のように若者達を刺激し、魅了した。気後れがちな自分もオソルオソル向山研究室の門を叩いた。卒論の手ほどきは東工大から来られた故・佐藤俊夫先生(当時、助手)であった。向山先生が特に強調されたのは“蔵前の心”、“実践先行”ということであったが、アイデアが浮かんでも“うまくいくかな?”と逡巡していると、思いついたら即実験、“東大生はすぐいいわけをする、コーダイ(当時の通称?)ではそうではなかった”と言われ、“東工大はツワモノ揃い”の印象が一段と定着した(トラウマ#1)。

1996年、大岡山に引越し(中央右、緑色のシャツを着ているのが鈴木教授)
1996年、大岡山に引越し
(中央右、緑色のシャツを着ているのが鈴木教授)

1983年に学位を得て、慶応大学理工学部化学科の助手に採用された。新設学科の雰囲気は素晴らしく、また“福沢教”とも呼ぶべき愛校心に満ちた明るい雰囲気の中で13年間、教育研究に勤しんだが、1996年、突然終焉を迎えた。当時の本学理学部化学科、桑嶋功先生、故・柿沼勝己先生から“来ないか”とお誘いを受けたのである。上述のトラウマを抱え、自らの適性にも疑心暗鬼のまま、ともかくお受けすることにした。写真は、手作業で横浜の日吉から研究室丸ごと大岡山に移動してきた日の風景である。

来てみて肩すかしだったのは、ツワモノのはずの学生諸君がなんだか相手の目をみて話すのが苦手、またアキバ系が多いことであった。一方、予想を裏切らなかったのは理学部教授会、“野武士集団”よろしく罵声飛び交う場であり、あろうことか“虚学(実学ではなく)が重要、役に立ってはいけない!”という発言もわが耳を疑った。かくして当時の小生の落胆、憔悴ぶりは小学2年生の娘にも明白だったらしく、“学校で先生に怒られたの?私が行って謝ってあげようか?”と言われる始末。“一応、パパも先生なんだけど(苦笑…トラウマ#2)”

また、実験室が狭隘で廃墟のよう(故・茅幸二先生談)だったことには往生した(トラウマ#3)。これでは“同志”として慶応から一緒に来てくれた学生諸君に申し訳ないと、各方面に訴えた結果、本蔵義守先生(当時の理学部長)が文科省関係者を含めた欧州視察団に送り出して下さり、これが実験環境改善に向けた全国活動、また、モデル実験棟(現在の東一号館)の建設にもつながったのは“塞翁が馬”(#1)だった。

全学的活動としては、21世紀COE、GCOEが思い出深い。欧米では至極当然のことであるが、博士課程学生が経済的に自立し(親がかりでなく)、研究に没頭して、専門性を磨くことを支援するためのプログラムであった。当初、故・山本隆一先生を代表として文科省に提案する上で、両キャンパスの化学系6専攻の協力を得るのになかなか苦労したが、いざ船出後は10年余の間に信頼のおける仲間ができた。また、欧米を参考に、という趣旨からは、本学の姉妹校スイス連邦工科大学(ETH)にかつて1年滞在したご縁から、恩師Seebach先生との交流に加え、何人かがポスドクに来てくれるなど、太いパイプがあったことは有り難いことであった。

さらに何の因果か、研究担当の副学長に任命されてしまった。当然、お役目は “皆を鼓舞し、研究し易くすること”、かと思いきや、その実は“アヤマリ役”(モグラ叩きの如く続発する案件に対応し、適切な角度で頭を下げる役)であった(トラウマ#4)。もちろん自他共にミスキャストは明白、せめてもの救いは1年でお役ご免となったことであった。そうこうするうちに、還暦の時に胃がんの手術をするハメとなったが、逆に最後の5年間は研究のラストスパートに集中できたのは塞翁が馬(#2)であった。

24年間の大岡山生活を振り返ると、様々な方からのご支援の思い出が去来するが、謝意をと思っていた最終講義がコロナ禍で延期(中止?)となってしまった。しかし、明らかに準備不足だった身にはこれまた塞翁が馬(#3)、内心の安堵を隠しつつ、この場を借りてお世話になった皆様に感謝の意を表したい。

退職に寄せて

工学院 教授(経営工学系) 飯島淳一

早いもので、この3月をもって、定年のため本学を「卒業」することになりました。1973年4月に本学に入学してから、あっという間に47年も経ってしまいました。

私は、4類に入学後、制御工学科(機械系)に進み、1976年4月からの卒業研究では、経営工学科高原康彦先生(当時教授、現在本学名誉教授)の研究室に所属しました。修士からは高原先生が本務としていた総合理工学研究科のシステム科学専攻に進学し、すずかけ台キャンパスにしばらくおりました。当時は故松田武彦先生が教授、高原先生が助教授ということで、松田・高原研として、様々な活動を合同で行っていました。

松田・高原研に所属できたことは、私のその後の人生を左右した大きな岐路だった気がします。1981年から4年間本学学長を務められた松田武彦先生は、誰もがその人柄に魅かれる大先生で、理論派の高原先生とは絶妙なコンビでした。夏は館山に海水浴、秋は紅葉を賞でに温泉旅行、冬になると1月には志賀高原の熊の湯、3月には八方尾根へスキー旅行にと、両研究室合同で出かけていました。

博士課程在学中に、ブロツワフ工科大学(ポーランド)とリンツ大学(オーストリア)に1年半ほど留学し、1982年4月から高原研の助手になりました。その後1989年3月まで、すずかけ台キャンパスで助手を勤めた後、工学部(経営工学科)の助手となって、大岡山キャンパスに戻り、1991年11月に同助教授となりました。そして、1996年に社会理工学研究科が設立されるタイミングで、その直前に定年退職された高原先生の後を受けて、教授となりました。その後、2016年の教育改革後に工学院(経営工学系)に移り、今日に至っています。

E-JUSTにて(2014年3月26日、前列が飯島教授)
E-JUSTにて(2014年3月26日、前列が飯島教授)

次に、研究について少しお話しをさせてください。博士論文では、留学中に学んだ抽象数学を用いて、一般システムの分解に関する代数的な理論構築を行いました。助手になってからしばらくは、「数理的システム理論」の研究をしていましたが、その後、「情報システム学」に研究テーマをシフトし、意思決定支援システム(DSS)やワークフローマネジメント、ビジネスプロセスなどを研究してきました。2000年代になってから、IT投資対効果にテーマを移し、企業でのICTの利活用を効果的に進める要因について研究しはじめ、ここ10年は、エンタープライズ・エンジニアリングが研究テーマとなっています。

さて、在職中には、25名の博士を修了させることができ、また、E-JUSTにおける経営工学専攻の支援や機械系などの他学科と一緒にアントレプレナー育成のプロジェクトを始めたり、学内でのいろいろな活動にも参加させていただき、楽しい教員生活を過ごすことができました。50年近くに及ぶ本学とのお付き合いも今年度限りとなりますが、今後の本学の益々の発展を祈念して、この稿を締めくくりとしたいと思います。

すずかけ台での44年間を振り返って

工学院 教授(情報通信系) 小林隆夫

学部4年時の1976年5月に、卒業研究ですずかけ台キャンパス(当時は長津田キャンパス)の総合研究館(S1棟)にあった研究室に配属されて以来、学生時代から定年退職を迎える今日までの44年間をすずかけ台キャンパスで過ごしたことになります。卒研配属の時期がすずかけ台キャンパスへの第一陣の移転の約半年後ですので、現在までの同キャンパスの移り変わりをほぼすべて見てきたことになります。

当初キャンパス内には総合研究館と精研・像情報棟(R2棟)の他には大きな建物がなく、国道246号線の陸橋をくぐってR2棟前のキャンパス内道路に通じる道も細くてみすぼらしく、キャンパスと呼ぶにはとても寂しい状況でした。当時の田園都市線はすずかけ台駅が終点で、つくしの駅から先は単線運転でした。ただ、田園都市線が大井町からすずかけ台まで直通運転であったことから、大岡山との往復はあまり苦にならなかったように記憶しています。

すずかけ台キャンパスG2棟を背景に石彫「伝承と創造」の前で
すずかけ台キャンパスG2棟を背景に石彫「伝承と創造」の前で

学部卒業後は発足間もない大学院総合理工学研究科物理情報工学専攻に進学し、修士、博士の5年間を研究室があったR2棟で過ごしました。さすがに、大学院を修了するまでには大学院関連(G棟)や他の研究所関連(R棟)の主な建物、附属図書館分館・食堂も揃ってようやくキャンパスらしくなりました。さらに博士課程修了後は精密工学研究所に助手として採用して頂き、その後研究所の助教授を経て大学院総合理工学研究科物理情報工学専攻教授に異動したのを機会にR2棟からG2棟に移りました。それにつけても四季それぞれに異なった趣が楽しめるキャンパス内外の里山の風景や、春から夏にかけての鶯の美しい鳴き声に随分と心を癒されてきたように思います。

この間の研究テーマは音声分析、音声合成、音声符号化、音声認識など、音声情報処理と呼ばれる分野であり、20年ほど前からは、様々な話者の声でしかも多様な感情表現や発話スタイルによる音声をコンピュータにより生成する「表現豊かな音声合成」手法の研究開発をメインに行なってきました。幸いにもこの研究分野での貢献が認められ、電子情報通信学会とIEEE(アイ・トリプル・イー)からフェローの表彰を頂くことができました。

長年にわたり恵まれた研究環境や優れた学生に囲まれて過ごせたことを関係各位に深く感謝すると共に、皆様方の今後益々のご発展を心より願っております。

本学での知財教育への更なる期待

工学院 教授(経営工学系) 田中義敏

1980年に東工大原子核工学専攻を修了後、通商産業省特許庁に入庁し、科学技術庁、米国UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)での在外研究員などを経て約12年間役所生活を送り、その後、欧州企業へ転身し約11年間ビジネスの現場を体験、2002年の小泉純一郎総理の施政方針演説を機に東工大で知的財産講座が発足、同年末に母校に戻り約17年間教育研究に携わらせていただき、今日に至りました。

本学講堂で始まった初年次学生への知財教育
本学講堂で始まった初年次学生への知財教育

振り返ってみれば、官産学の異なる業界で様々な経験をさせていただきました。今日では、知的財産権制度は世界のグローバルスタンダードとして約190ヵ国で活用されており、人類が生み出した創作物を保護し更なる創作を奨励する産業発展の基盤を支えるものとなっています。

本学では、理工学分野の多くの研究成果が創出され、本学ひいては我が国の国際競争力の向上に有効に活用されています。本学に着任した当時は、主として修士課程学生に対する知財教育を任務としていましたが、すでに自らの理工学分野の専門領域にどっぷり漬かり研究成果を追求している大学院学生にとっては、人によっては単なる文系教養科目のように感じていた人もいたかも知れません。最近では、専門科目の学習を始める前に、理工系人材にとって必須の知識として大学入学後の早い段階での知財教育が重要との考えに基づき、初年次での知財教育の導入が実現されてきました。

大学の研究成果を知的財産権で保護し、社会に適切に技術移転して、市場に豊かさを与える製品・サービスを供給し、同時に国際競争力を確保していく。その基盤として知的財産権制度が位置しているわけで、産業発展や国際競争力の向上になくてはならないものです。是非、本学における知財教育を今後も継続し更に充実させてほしいと切望しております。『理工系人材は、将来、最低一度は知的財産権の問題に直面する』と日頃から主張してきました。

田中研究室には、大学院学生を65名、海外からの客員研究員を32名受け入れてきましたが、多くの優秀な学生さん達との出会いは私の一生の宝となりました。皆さんの更なるご活躍と東工大の益々のご発展をお祈り申し上げます。

大変お世話になりました。ありがとうございました。

定年退職を迎えて

工学院 教授(電気電子系) 七原俊也

私は、2015年4月から5年間、工学院電気電子系教授として、太陽光発電や風力発電などの再生可能エネルギー発電(再エネ電源)を電力システムに接続した場合の技術課題について研究を行いました。またその前にも、2001年6月より4年弱、本学の理工学研究科電気電子専攻の客員教授を務めていました。この間には、本当に多くの方々にお世話になりました。

研究打合せ後の風景(前列右が七原教授)
研究打合せ後の風景(前列右が七原教授)

私は、京都大学大学院修士課程を修了後、36年間(約6年間の客員教員を含む)の多くを電力中央研究所という公益法人で研究開発に携わってきました。研究所から大学に移った当初は戸惑うことも多々ありました。たとえば、授業に携わっていると、学生諸君が「あれ、ちゃんと理解しているのかな」と不安をおぼえることもありました(失礼!)。しかし研究室で研究に取り組んでもらうと、吸収力・展開力など驚くほどでした。学部生として入ってきた時と大学院修了の時では別人に見える、若さは本当に素晴らしい。大学に移るまでは、熟達者(というより「伸び代」が小さい)メンバーとのやりとりが主でしたので、「伸び代」の大きい若者の教育に携わり、一緒に研究できたことは得がたい貴重な経験でした。

私が携わってきた再エネ電源の電力システムへの影響という分野は、長い歴史を有する電力システムに従来の電源とは大きく異なる特性を有する太陽光・風力発電を導入した場合を対象としています。電力システムのように、構成要素が多く歴史の長い分野は、初学者にはハードルが高い分野となりがちです。しかし、そのような心配は結果的には不要でした。研究室のメンバーは、電力システムの新しい同期安定性向上方策、需給制御の新しい評価手法、再エネ電源を用いた新しい周波数制御手法等で多くの成果をあげてくれました。またアジア(タイ、中国)、ヨーロッパ(ドイツ、デンマークなど)、アフリカ(エジプト)からの多くの留学生とともに過ごせたことも印象に残っています。

振り返ってみれば、研究がなかなか進まずやきもきしたり、締め切り直前になって計算・実験をやり直してもらったり、海外出張でホテルがキャンセルされていたりという多少のトラブルはありましたが、東京工業大学で研究・教育を行った5年間(客員時代を含めれば9年間)は実に楽しく有意義な日々でした。

このような機会を与えていただいた学生諸君を含む関係の皆様に厚く御礼申し上げるとともに、東京工業大学および関係の皆様のますますの発展を祈念しております。

材料組織学との出会い

物質理工学院 教授(材料系) 梶原正憲

本学に入学してから現在に至るまでの長きにわたり、お世話になった全ての方々に厚くお礼申し上げます。学部4年生では、鉄鋼材料学講座の菊池研究室に所属し、Ni基超合金の材料組織安定性に関する学士論文研究を行いました。この研究は、修士論文研究や博士論文研究に発展し、主指導教員の故・菊池實先生、副指導教員の故・田中良平先生、故・藤平昭男先生、松尾孝先生ほか多くの先生方のご指導により、博士号の取得につながりました。

博士課程修了後も菊池研究室で材料組織学の研究を続ける傍ら、1988年10月~1989年9月の1年間、ストックホルムのスウェーデン王立工科大学のMats Hillert先生の研究室でNi基超合金の材料組織安定性の研究を発展させる幸運に恵まれました。滞在中の冬は歴史的な暖冬でしたが、最高気温が-12℃で最低気温が-25℃という日もありました。このような日に外を歩くと、30分で体温は着実に下がります。ところで、1989年1月7日(土)の午後、偶然通りかかった電気店で短波ラジオを衝動買いし、その日の夜、ガボン共和国の中継局を介して配信されるラジオ日本(NHK)のニュースを初めて聴きました。電離層と地表を何回も反射して地球の裏側から届く雑音混じりのアナウンサーの声は「天皇の崩御」を伝えていました。異国の地で、浦島太郎になった瞬間です。後日、昭和から平成に元号が替わったことをNews Weekで知りました。

一方、1989年10月~1990年11月の1年2ヵ月間、ドイツ・シュトゥットゥガルトのマックスプランク研究所のWolfgang Gust先生の研究室で、フンボルト財団奨学研究官としてCu基合金の材料組織変化に関する研究を行いました。ところで、1989年11月10日(金)の夜、デュッセルドルフのビジネスホテルで目にしたテレビニュースで、ベルリンの壁が前日崩壊したことを知りました。壁の崩壊を契機に、東西の両ドイツは、1990年7月1日(日)に経済統合し、同年10月3日(水)に政治統合しています。入国時と出国時の国が違ってしまいました。

秋の講演大会にて(前列中央が筆者)
秋の講演大会にて(前列中央が筆者)

帰国後の1992年7月にすずかけ台キャンパスの材料科学専攻の基幹講座に移籍し、森勉先生、佐藤彰一先生、加藤雅治先生ほか多くの先生方といっしょに、Cu基合金の材料組織変化に関する研究を続けることができました。1997年4月の部局改組で専攻名が材料物理科学専攻に変わり三島良直先生や小田原修先生が基幹講座に加わり、2016年4月の大学改革ですずかけ台と大岡山の両キャンパスの当該分野の教員が同一部局に集合しました。このような組織改革を経験しましたが、緑に囲まれたすずかけ台キャンパスで地道な教育・研究活動を継続することができました。毎年9月に全国の主要な大学で所属学会の講演大会が開催されますが、研究発表後の打上会や観光地巡りを愉しみに、学生達とともに研究に励むことができました。自然豊かなキャンパスで幸せな教育・研究生活を過ごさせていただいたことに深く感謝いたします。

2つのキャンパスを駆け抜けて

物質理工学院 教授(応用化学系) 吉田尚弘

学生で9年、教授として22年、合わせて31年在籍いたしました。幼少期に学内を「探検」していたので、さらに数年お世話になっています。本館の化学専攻の研究室に6年、その後15年ぶりに5研究機関目の本学総合理工学研究科の2専攻担当として、すずかけ台のG5とG1棟に着任し、その数年後、フロンティア創造共同研究センターに5年、2つのCOE、リーディング大学院、副学長総括補佐、そして8年ほど前からELSIのPIで両キャンパスの最大4つのデスクを往復する毎日でした。日に1、2往復は当たり前で、キャンパス間の移動を苦にしている暇はありませんでした。学生にも「東工大の全てを利用し尽くしてみては」と話しています。

他機関を巡り、さらに、本学で幾度も引越していますが、引越し上手にはなれないもので、定年の3月を迎えても、まだあと一部屋を片付けています。アナログからデジタルへの進化にほぼ全て付き合ってきたことも一因です。D論が電動タイプライターの時代でしたので、読み書きする論文は印刷体が主で、別刷り、手書きの手紙に加えて、プレゼンもスライドやOHPを多数残していました。この機会に「断捨離」しています。

書類を片付けていて、コピー5部を国際郵便で論文投稿し、受理のAirmailをLove letterの返事のように待ったことを思い出しました。欧州や米国の学会連合の機関誌の編集長をそれぞれ10年、3年務め、約2,000編の決定をした折には、すでにウェブでの投稿・編集で、ボタン一つで味気ないと感ずることもありました。Open accessが主になり、より瞬時化が進み、今後の公表方式も大きく変わると予想されます。先ほどの欧州の雑誌はOpen review、米国のものは4週以内で決定です。

研究は、幸運もあり毎年の科研費で進めてきましたが、前職名古屋大学助教授時代にJST(科学技術振興機構)のCREST(戦略的創造推進事業)アイソトポマー・プロジェクトを始めて、「ジェットエンジンをつけた自転車」に乗り始め、本学ではSORST(発展研究)につながり、「終わり」がなく「走り続けて」来てしまいました。研究費がない年はありませんでしたが、4年前に2つの基盤研究(S)の間の空白の1年で、初めて本学の大型研究プロジェクト形成支援を受けました。首の皮が繋がりましたことを感謝申し上げたいと思います。このように予算や装置にも恵まれましたが、一番は国内外の多くの共同研究者、特に、研究室の教員・スタッフ、学生(博士36名、修士120名強、学士20数名)、そして自由闊達に教育研究できる環境を守っていただいた学内の教職員の皆様に恵まれました。

第7回国際アイソトポマー会議2014年(最前列中央が吉田教授) 吉田教授が主宰し、隔年で日欧米開催、本年10月東工大で第10回開催予定
第7回国際アイソトポマー会議2014年(最前列中央が吉田教授)
吉田教授が主宰し、隔年で日欧米開催、本年10月東工大で第10回開催予定

この間、学外、国外の委員に委嘱されました。中でもJSPS(日本学術振興会)学術システム研究センターでは教職一体となって、科研費改革を達成する経験を得ました。UNEP(国際環境計画)の科学助言を担当し、今はJSPS国際事業部委員、国際アイソトポマー会議議長をしています。基盤(S)を実施中で、もう少し研究は続けることになりそうですが、これまで以上に若手育成に意識を高めて行きたいと思います。学部2年生から博士まで、ある育英会の奨学生でしたが、今年から選考委員を仰せつかり、ほんの少しずつ、御恩を返せそうです。

このように駆け回って来てしまいましたが、研究室のメンバーや教職員の皆様には多大なご迷惑とお手数をおかけしました。もう少しすることになりそうですので、ここに記して感謝申し上げますとともに倍旧のご厚誼をお願い申し上げます。

東工大での13年間

物質理工学院 教授(応用化学系) 和田雄二

わたしは、東工大で学位を頂いてから、海外で2ヵ所、その後東工大で5年間仕事、そして、また国内の他大2ヵ所を転々とし、そしてまた最後に東工大で13年間仕事と、あちこち移動したおかげで、未だ定住地がありません。去年の11月まで白金台駅から徒歩の東工大上大崎宿舎にお世話になっておりましたが、今は武蔵野市に住居を定めております。妻は、移動するたびに、その土地でせっかくできかけた人のつながりが切れるとご不満でした。今回は、彼女の仕事場から徒歩圏内に住み、今後はいろいろな決定権を渡して罪滅ぼしと思っております。

わたしにとって、仕事の場所を変えることは、仕事の方向性を変えることと同義でした。学位論文は、ゼオライトという固体触媒研究で書いたのですが、途中から界面での光化学がおもしろくなり、さらに光と同じ振動電磁場でも波長がずっと長いマイクロ波を用いた化学の研究へどんどんと研究の方向が変わってゆきました。研究室の中でも、光化学研究、太陽電池研究、とマイクロ波化学研究の学生がおり、それぞれの研究の進捗度合いで人数や投入資金額が変わっておりました。大学での最終段階の今は、固体触媒にマイクロ波を入れ込んだマイクロ波固体触媒化学プロセスの研究に入れ込んでおります。

写真(左)は、マイクロ波化学研究を始めたときに使った第1号機で、某社の調理用電子レンジの天井に穴を開け、ターンテーブルをはずして、レンジ内に化学合成用フラスコを入れました。写真(右)は、制御性の高いマイクロ波の定在波を発生させる化学反応用照射装置です。マイクロ波の発振器も、マグネトロンから半導体へと進化し、マイクロ波化学研究の20年間に、装置もこれだけ進歩しました。最初は、「きわもの」研究と揶揄されたマイクロ波化学にも、in situオペランド計測を入れ込み、マイクロ波照射下で起こっている特殊効果が観測できるようになりました。

調理用電子レンジを利用して作成した、マイクロ波化学研究用の実験装置 第1号
調理用電子レンジを利用して作成した、
マイクロ波化学研究用の実験装置 第1号

制御性の高いマイクロ波の定在波を発生させる化学反応用照射装置
制御性の高いマイクロ波の定在波を
発生させる化学反応用照射装置

3月13日に予定していた最終講義は、「光化学とマイクロ波化学研究、どこがどう違う?どちらが儲かるか?」などとタイトルを想像して楽しんでいるうちに、新型コロナウイルス禍で中止です。そこで、こんな記事を書かせていただこうと思った次第です。東工大での13年間は、わたし自身が、振動電磁波の波長の長いほうにどんどん引き寄せられるためにあったのかという印象です。退職後の仕事は、マイクロ波を用いた化学プロセスを実装する現場にヘルメットを被って入りたいと思います。

13年間の仕事場をいただいたことに感謝し、皆さまのご多幸をお祈りいたしております。

36年間の東工大生活を振り返って

生命理工学院 教授(生命理工学系) 中村聡

学生として6年間、教員として30年間、合計36年間もの長きにわたり、東工大で楽しく過ごさせていただきました。定年を迎えるにあたり、お世話になりました本学教職員の皆様、そして研究室の卒業生と現役学生の皆様に、心より感謝申しあげます。

私は修士課程までを化学工学科(専攻)で過ごしました。学部時代は大部分の時間を剣道部と雀荘(順風となぎさ)と喫茶店(ミュスカとロイヤル)で過ごしました。教員となった今でもしばしば、あたりやのかつ丼、つかさのあら煮、そして雀荘で出前をとった信華園の両面やきそばなどを食べに行き、当時を懐かしく思い出しております。

修士課程修了後は10年間の民間企業研究所勤務を経て、縁あって母校に助手として戻って参りました。その当時は生命理工学部創設の時期で、すずかけ台キャンパス(当時は長津田キャンパス)への移転や新しい学生実験の準備に多くの時間を費やしました。

助教授となってからは、自身の研究室の立ち上げにあちこち駆け回ったことが、今となってはよい想い出です。それ以外に、教務部長補佐や部局の教育委員長という要職を拝命したことも自身の大きな成長に繋がったと思います。入試や教務の業務を通じ多くの他部局の教員や事務職員の皆様と緊密な信頼関係を築くことができ、そのことがその後の自身の教育研究の遂行に大いにプラスとなっていることを実感しています。

教授となってからは、全学センター・室の業務を通じて部局や大学運営の基本を勉強させていただきました。中でも評価室の教職員メンバーとは、大学評価の走りの頃から苦楽をともにし、ともに多くの時間と価値観を共有したことが印象的です。助教授時代から築いてきた学内の人脈は、全学の広報を担当した際に大いに役立ちました。また、四大学連合複合領域コースに関しては創設時より深く関与しましたが、毎年300名近い学生が履修を希望する人気のコースに成長したのを見届けることができ、安堵しております。さらに、科学技術振興機構、日本学術振興会、大学改革支援・学位授与機構などの役所の業務を通じて、日本の科学技術行政について多くのことを学ばせていただきました。

本務とは別に、助教授時代から剣道部長を拝命し、18年間剣道部とともに過ごさせていただきました。私が学生時代、本学剣道部は全国国立工業大学柔剣道大会(剣道の部)において創部以来初の大会優勝を果たし、その勢いで2連覇を達成しました。そして、その36年後、今度は私が剣道部長のときに 3連覇の快挙を達成し、学長に報告することができました。

柔道部・剣道部による戦績報告(2014年、学長室にて)左が中村教授、中央右が三島良直学長(当時)、中央左が丸山俊夫理事・副学長(教育・国際担当)(当時。中村教授の前任の剣道部長であり、2020年1月ご逝去)、右が末包哲也教授
柔道部・剣道部による戦績報告(2014年、学長室にて)
左が中村教授、中央右が三島良直学長(当時)、中央左が丸山俊夫理事・副学長(教育・国際担当)
(当時。中村教授の前任の剣道部長であり、2020年1月ご逝去)、右が末包哲也教授

自身の研究に関しては、本学の助手として赴任して以来、一貫して極限環境微生物・極限酵素の研究に従事し、日本化学会・極限環境生物学会・酵素工学研究会といった学協会で自身の居場所は確保できたと自負しております。

最後になりましたが、36年間の東工大生活を振り返り、あらためてこれまでのご厚情に感謝申しあげますとともに、母校のますますのご発展を祈念いたします。

これまで24年間

環境・社会理工学院 教授(イノベーション科学系) 宮崎久美子

これまで24年間、東京工業大学において社会理工学研究科、工学部、イノベーションマネジメント研究科、環境・社会理工学院と現在に至るまで、技術経営分野の教育・研究に携わって来ました。工学部では当時の工学部長の元、工学教育の高度化に向けた立案、企画などを行い、技術経営教育の重要性を唱え、技術経営専攻の立ち上げに深く関与しました。

左から、イノベーションマネジメント研究科で指導した加藤さん、経営工学専攻時代の研究室の迫さん、宮崎教授、経営工学専攻時代の研究室の當間さん、宮澤さん
左から、イノベーションマネジメント研究科で指導した加藤さん、
経営工学専攻時代の研究室の迫さん、宮崎教授、
経営工学専攻時代の研究室の當間さん、宮澤さん

イノベーションマネジメント研究科が設立された後はグローバル社会で活躍できるリーダーの育成を念頭に、多くの大学院生の教育に携わって来ました。私は教育者として、学生の能力開発に努めて来ました。学生には個人差があり、また興味も異なります。社会人の場合は、属している企業等で抱えている問題を課題として取り組むケースが多く、理論と実践を統合するやり方で指導して来ました。また研究テーマは学生が自発的に提案するように指導しました。

私の指導の下ですでに15~16名が博士号を取得しました。修了生は産業界のほか、イギリス、南米、中国、インドネシアの一流大学で教員として活躍しています。多種多様な優秀な学生さんに恵まれたことに感謝します。

私は、技術の相互依存性、イノベーションプロセス、技術的軌跡、技術戦略・政策・普及、コンバージェンスと様々な視点から技術経営と技術戦略に関する研究を行って来ました。今までに2010年に受賞した研究イノベーション学会の学会賞をはじめ、4~5回、学生とともに国際会議で最優秀論文賞を受賞しました。

政府の様々な審議会の委員として国の科学技術政策、通信政策に関連した社会貢献をして来ました。また2017年より、放送大学の「技術経営の考え方」という講座の主任講師としてラジオで講義をして来ました。最近では日本学術会議の連携会員として活動しています。

色々な活動をして来ましたが、一番すばらしかった事は学生さんとの巡り合いです。指導することにより、私も多くのことを学ぶことが出来ました。イギリスの高校で古代ギリシャ語も学びました。古代ギリシャの諺にKnow Yourself(自分を良く知ること)という言葉があります。自分が本当にしたいこと、自分がチャレンジしたいことは何なのか、世の中を良くするために自分は何ができるのか、自分の強み、弱みは何なのか絶えず把握することが大事だと思います。私は4月から別府にある立命館アジア太平洋大学に特別招聘教授として着任します。AACSBで認証されたMBAコースで大学院生を、また国際経営学部でも英語で教えます。

おかげさまで充実した24年間を過ごすことが出来、皆さまに感謝いたします。東工大の皆様のさらなる発展を祈念いたします。

32年間の至高な時間を振り返って

科学技術創成研究院 教授(フロンティア材料研究所) 伊藤満

研究室発足直後(1988年) のメンバー(後列右が伊藤教授)
研究室発足直後(1988年) のメンバー(後列右が伊藤教授)

1982年に東工大で博士を取得後、大阪大学で助手として約6年を過ごしてから工業材料研究所(現フロンティア材料研究所)の准教授として赴任して以来32年になります。1988年着任当時はバブル崩壊直前で好景気が続いており、大学には補正予算が認められるのにほぼ同期して科学技術関連予算が投下されるという良い時代でした。工業材料研究所でも、時限付きの施設が当たり前のように更新され、そのたびに、装置も教員の任期も更新されました。

1990年代には、バブル崩壊とともに、大学予算の締め付けも厳しくなり始め、未来永劫に続くと思われていた大学附置研も存続には競争原理が導入されたため、規模が小さな研究所に関しては統廃合の可能性があるとの噂が飛び交いました。この中で、文部省学術機関課から全国共同利用研化が附置研として生き残る術の一つであるということが示唆され、東大生産研を除いた多くの大学附置研が共同利用研化を図りました。この理由で1996年に工業材料研究所は新たに全国共同利用研「応用セラミックス研究所」として組織改変を行いました。全国共同利用研の御旗の効果は最初の数年は絶大で、(法人化までは)概算要求で大型の装置導入が数回以上認められ、共同利用研にふさわしい体裁をある程度整えることができました。また、複数名の教員の純増(4名)も認められました。

しかし2000年代に入って国の財政赤字が顕著になり、さらに2003年に全ての国立大学が法人化されたため大学附置研は学術機関課の管轄から離れたため改廃に関しては各大学の判断に委ねられるようになりました。国の緊縮財政は現在まで続き、2016 年には東工大の4つの附置研は科学技術創成研究院として統合されたため各研究所は独立部局では無くなりました。応用セラミックス研究所もフロンティア材料研究所として名を変え研究院内の1組織として存続し現在に到っています。私が東工大に在籍した32年のうち最初の10年で大学は財政的なピークを通り過ぎました。当時の溌剌とした研究所の状況は今となってはリアリティーの無い逸話になりました。

1934年設置の建築材料研究所、1943年設置の窯業研究所、戦後2つが統合された工業材料研究所、応用セラミックス研究所、そしてフロンティア材料研究所で培われてきた精神は脈々と引き継がれており、それは時代の先取りと世代を超えた教員間の対等な議論であり、分野を超えた開拓者への共感と応援の気持ちであると思っています。

最後になりますが、32年間の長きに亘り研究室を支えていただいた秘書、助教、准教授の皆様、在籍された学生、研究員、客員教授の皆様、さらに研究所と大学の教職員の方々には感謝の意を表したいと思います。2030年には世界の並み居る強豪大学を押しのけて東工大がトップテン入りすることを楽しみにしています。

研究所での38年

科学技術創成研究院 教授(化学生命科学研究所) 小坂田耕太郎

資源化学研究所の助手として長津田キャンパスに赴任したのは、ついこの間のことのようです(名称はいずれも当時のもの)。R1棟の東側と西側には、それぞれ各部門の教員室、実験室、測定機器室、輪講室が整然と割り当てられており、廊下には何も物品がでていないという様子に、さすが東工大(それも附置研)という思いを持ちました。

さらに印象に残っているのは、所内の先生方が研究第一の姿勢を強く御持ちであることでした。助教授の先生方の多くは時間が空くと御自分で手を動かして実験や測定をされていました。重点化前で大学院生数も今より少なく、先生に頼る学生もほとんどいませんでした(先生も学生に頼ったりせず自分で仕事をされていた)。必然的に、助手には自身の研究以外にすることはあまりなく、昼間は実験、日が落ち始めてから論文書きなどのデスクワークや、今と比べるとはるかに少なかった「雑用」をやって、といった毎日でした。研究の時間を大切に、との無言の圧力を常に感じていましたが、それでも昼休みには卓球やキャッチボールをしたり、日が暮れると事務の方も交えてビールを飲んだりと、オフを楽しむ余裕がありました。

15年ほど前、卒業生からの御餞別と一緒に
15年ほど前、卒業生からの御餞別と一緒に

それからずっと、研究第一で、あるいはそれを目指してやってきたように思います。助教授になった時には、研究以外の色々な事をできるかな?という不安を強く感じていました。教育を担当する大学院総合理工学研究科に御挨拶にうかがった時に、研究科長の古川静二郎先生は、笑顔で一言「健康に気を付けて頑張ってください」とだけおっしゃいました。何を言われるか緊張していた私の表情を御覧になっていたのかもしれませんが、肩の力が抜けたことを覚えています。新たにやる気もわいてきました。

教授になってから、21世紀COE(代表山本隆一教授)及びグローバルCOE(代表鈴木啓介教授)プログラムに事業推進担当者や副代表として参加し、10年余り化学関連分野の大学院博士後期課程学生の教育をお手伝いしました。この10年間に育った本学博士出身者が、現在学界、産業界で活躍している様子を折に触れて見ることができ、そういった時はとてもうれしく思います。一方で、大岡山の先生方と苦楽を共にしたことは、とても勉強になり、私自身を高めてくれました。知的かつ論理的な、でも少し控えめで、といった本学の先生方と色々語りあえた時間は、今の私にとっては宝物みたいなものです。

皆様に、東工大にとてもお世話になりました。明るくさよならを言わせてください。

東工大における私の教員生活

科学技術創成研究院 教授(未来産業技術研究所) 新野秀憲

1987年4月、通商産業省工業技術院機械技術研究所から、学生生活の大半を過ごした本学工学部生産機械工学科機械加工学講座に助手として着任した。早々に与えられたミッションは、当時の機械系5学科(機械工学、生産機械工学、機械物理工学、制御工学、経営工学)が総力をあげて取り組んだ「知能化機械研究設備」を概算要求として提案することであった。連日、「頭が硬いなあ、夢が無いなあ。もっと柔軟な発想は無いのか」、「もっと上手な図や文章が作れないのか」と教授達に申請書案の駄目出しをされながら、日常業務を終えた後、若手教員と共に下手なお絵かき・作文と格闘した。

幸いにもその概算要求は、1987年12月末に内示を受け、昭和63(1988)年度から3ヵ年計画で関連する研究設備の導入が開始された。湾岸戦争の影響で予算凍結があったものの、数年後に前方後円墳のような知能化機械研究棟(現石川台5号館)も竣工した。無から有を産んだ壮大な研究プロジェクト策定と遂行の貴重な経験は、科学研究費補助金に代表される外部資金の獲得に活かされ、超のつく様々な機械システムを実現する上で研究費が無くて困ったことは無かった。

広域ナノパターンジェネレータANGELの前で
広域ナノパターンジェネレータANGELの前で

着任して10年を経過した機械系新年会で、当時の精密工学研究所(精研)所長から巧みな誘いを受けて、精研に転任した。その後、20余年間に精研教職員の皆様に支えられ、研究戦略室・研究企画官主務(すずかけ台担当)、第26代精研所長、研究院選出の評議員、附属図書館すずかけ台分館長などの職務を無事全うできた。特に、大岡山での3年間の研究企画官の経験は、その後の職務で必要な会議運営、官庁訪問、人的ネットワークの構築、政府施策に準拠した事業計画の策定、ヒヤリング等のスキルを学ぶ上で有用であった。それらのスキル無しに附置研究所再編や文科省共同利用・共同研究拠点の採択が最重要課題であった旧精研所長の広範な職務は達成できなかったかも知れない。

最近、「毎日、雑用に追われている」旨の発言をされる先生方が増えた印象がある。教員生活を振り返り、「人生に雑用、無駄は無い、それらの経験はその後の人生に役に立つ」と私は信じている。また、大学を取り巻く環境は大学改革以降、大きく変化していて先例が必ずしも参考になるとは限らない。先例にとらわれることなく、環境変化に対応しながら、ご自身が理想とする教育と研究に挑戦し、本学の発展に貢献されることを祈念したい。

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