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理想的な大規模量子シミュレーションに成功

ノイズのない大規模量子アニーリングによる物質研究に道を拓く

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公開日:2022.09.16

要点

  • 2,000量子ビットの超伝導人工量子デバイスをノイズの影響なしに動作させることに成功
  • 量子力学の理論を大規模量子シミュレーションにより検証し、ほぼ完全な再現を確認
  • 大規模な量子アニーリングによる物質研究に期待

概要

東京工業大学 国際先駆研究機構 量子コンピューティング研究拠点の西森秀稔特任教授らの研究チームは、D-Wave社[用語1]量子アニーリング[用語2]装置を用いて物質中の欠陥の分布をシミュレートし、ノイズのない理想的な環境下での量子相転移[用語3]の理論とほぼ完全に一致する結果を得ることに成功した。

本研究では、2,000個の量子ビットをナノ秒[用語4]程度のごく短い時間スケールで同期的に動作させる高度な回路制御を実現し、誤差を補正するための精密なキャリブレーション[用語5]技術を開発した上で、理想的な動作の検証に最適な課題を設定した。その結果、2,000量子ビットを有する大規模な超伝導人工量子系[用語6]が、ノイズの影響を受けずにほぼ完全に動作することを初めて実証した。

この技術を応用することにより、古典コンピュータ[用語7]では検証困難な規模の動的量子現象[用語8]量子シミュレーション[用語9]で解明することが可能になると予想され、物質の量子力学的な性質の研究やそれに基づく開発が進展することが期待される。

本研究はD-Wave社、埼玉医科大学、南カリフォルニア大学との共同研究として行われ、9月15日付の「Nature Physics」にオンライン掲載された。

大規模量子シミュレーションを実行したD-Wave2000QのQPU(Media courtesy of D-Wave)

大規模量子シミュレーションを実行したD-Wave2000QのQPU[用語10](Media courtesy of D-Wave)

背景

量子コンピュータが社会的にも注目を集めているが、従来型のコンピュータ(古典コンピュータ)では解決が困難で、実用的な意義を持つ課題を量子コンピュータが解決した例はまだ報告されていない。2019年のグーグルによる「量子超越性」の達成は世界的な反響を呼んだ。しかしこの時の課題は、乱数の発生という実用性をほとんど持たないものだった。量子コンピュータが役に立つデバイスとしての地位を獲得するためには、大規模化の壁、ノイズの抑制、有用なアルゴリズムの開発、さらにこれらを支える基礎理論の飛躍的な進歩など、多くの困難を乗り越えなければならない。

一方で量子アニーリングは、その当初の目的である組み合わせ最適化問題[用語11]の枠組みを超えて、量子現象の解明を目指す量子シミュレーションへの応用が近年急速に進んでいる。これは、量子力学の原理に基づく物質の働きを量子デバイス上で再現してその性質を解明することによって、物質の特性を理解するとともに、その成果に基づいて新しい物質の開発を目指す取り組みである。

最近では、ゲート方式の量子コンピュータでも量子シミュレーションの研究が行われるようになってきており、先駆的な成果が報告されつつある。しかしそうした研究は規模が限られていて、古典的な手段でも再現可能な範囲に留まっている点や、ノイズの影響が大きいために量子力学の効果を完全な形で発現させるのが困難な点などが問題として残されている。量子シミュレーションに特化した装置での実験も見られるようになってきているが、量子ビット間の接続の柔軟性の限界やさらなる大規模化などが解決するべき課題である。

研究成果

本研究では、1次元物質における量子相転移に伴う物質中の欠陥数の時間変化という課題について、量子アニーリングによる量子シミュレーションを実施した。具体的には、2,000個の量子ビットを1次元の線状に配置した人工量子系を量子アニーリング装置上に実装して、そこでの欠陥の数を実験時間を変えながら測定した。この量子シミュレーションの結果は、ノイズのない理想的な環境を想定した量子相転移の理論の予測とほぼ完全に一致した(図1)。これは、数千個の量子ビットを有し、量子ビット間の接続が可変な大規模超伝導人工量子系を、ノイズの影響を排して量子力学の理論通りに動作させられることを示した初めての例である。

量子アニーリング装置を用いた従来の量子シミュレーションでは、実行に1マイクロ秒[用語12]以上の時間が必要だったため、その間に熱雑音[用語13]が混入し、純粋な量子力学理論とは十分には一致しないデータしか得られなかった。本研究では、従来の千分の一にあたる1ナノ秒程度というごく短い時間スケールで、2,000個の超伝導量子ビットを同期的に動作させる高度なデバイス制御技術を開発した。この技術で、熱雑音の影響が現れる前に短時間で実験を遂行することにより、量子力学に基づく量子相転移の理論の検証が可能となった。これに加えて、アナログデバイス[用語14]である量子ビットの持つ誤差を精密に補正するキャリブレーション技術を開発して、データの信頼性を大きく向上させたことも成功に寄与している。さらに、ノイズのない理想的な環境下における量子力学の理論が完成していて、実験による直接検証が可能な課題を選定したことも、今回の成果に至った重要な要因である。

図1. 実験時間(横軸)と欠陥数(縦軸)の関係。〇、×、△などの記号で示された量子シミュレーションのデータが、短時間領域(左の方の1ナノ秒から数十ナノ秒の範囲)でノイズのない量子力学理論(緑の破線)とよく一致している。数十ナノ秒を超える時間領域になると、熱雑音の効果が入ってきて理論との乖離が見られる。
図1.
実験時間(横軸)と欠陥数(縦軸)の関係。〇、×、△などの記号で示された量子シミュレーションのデータが、短時間領域(左の方の1ナノ秒から数十ナノ秒の範囲)でノイズのない量子力学理論(緑の破線)とよく一致している。数十ナノ秒を超える時間領域になると、熱雑音の効果が入ってきて理論との乖離が見られる。

研究成果の意義と社会的インパクト

本研究成果の意義は、1次元物質における量子相転移の理解という基礎科学的側面にとどまらない。量子ビット間の接続が可変な量子アニーリング装置上での大規模量子シミュレーションの技術的基盤を確立することで、より広範な量子物質の特性を正確に理解する新たな手段を提供した。これを通じて、有用な物質の開発に向けての取り組みが加速することが期待される。

本研究の対象は、量子ビットを1次元の線状に並べた量子系である。1次元という特徴を生かすと厳密な量子力学理論の構築が可能であり、その理論と量子シミュレーションの実験データが一致したのが今回の成果である。しかし、そうした量子力学理論には、より複雑な構造を持つ物質に対しては適用できないという問題がある。また、今回のような実験時間に依存する動的な量子現象の解明は、古典コンピュータ上で実行される確率過程に基づくシミュレーション[用語15]では、規模によらず原理的に不可能である。

一方、量子アニーリング装置での量子シミュレーションは、量子ビット間の接続の再設定によって、比較的容易に他の様々な物質を対象として実施することができる。本研究では、ゲート方式量子コンピュータ上で量子シミュレーションを実施した場合に見られる、規模の制約やノイズによるデータの劣化の問題も、量子アニーリング装置では大幅に緩和できることが実証された。今回の成果をきっかけとして、数千量子ビット以上の大規模な量子シミュレーションによる物質の量子力学的特性の理解や、それに基づく物質の開発が促進されることが期待される。

用語説明

[用語1] D-Wave社 : 量子アニーリングを実装する装置を開発、市販しているカナダの会社。

[用語2] 量子アニーリング : 量子力学の効果を使って、ある種の関数の最小値を求める方法。量子シミュレーションにも用いられる。1998年に東京工業大学の門脇正史と西森秀稔がその基礎理論を発表し、2011年にD-Wave社がハードウェアを商品化した。

[用語3] 量子相転移 : 量子力学の効果により物質の状態が急激に変化すること。

[用語4] ナノ秒 : 10億分の1秒。

[用語5] キャリブレーション : 回路が設計通りに動くよう調整すること。

[用語6] 超伝導人工量子系 : 超伝導技術を用いた量子ビットを多数並べて動作させるシステム。

[用語7] 古典コンピュータ : 量子コンピュータと対比させて、スーパーコンピュータを含む従来型のコンピュータを古典コンピュータと呼ぶ。

[用語8] 動的量子現象 : 量子力学の法則に従って時間とともに変化する現象。

[用語9] 量子シミュレーション : 量子コンピュータ上で物質の性質を再現してその解明を進めるとともに、新たな物質の開発に役立てるための研究。

[用語10] QPU : Quantum Processing Unitの略。量子コンピュータの中心的な素子。古典コンピュータのCPUとメモリの両方を合わせた機能を持つ。

[用語11] 組み合わせ最適化問題 : 多数の組み合わせの中から最適なものを選ぶ問題。

[用語12] マイクロ秒 : 100万分の1秒。

[用語13] 熱雑音 : 物質本来の性質を乱す温度の効果。

[用語14] アナログデバイス : 回路の主要なパラメータ値が連続的に様々な値を取れるデバイス。とびとびの値しか取れないデジタルデバイスと対比される。

[用語15] 確率過程に基づくシミュレーション : 大規模なシステムの性質を、一定の規則に従う乱数を用いて疑似的に再現する研究手段。

論文情報

掲載誌 :
Nature Physics
論文タイトル :
Coherent quantum annealing in a programmable 2,000 qubit Ising chain
著者 :
A. D. King, S. Suzuki, J. Raymond, A. Zucca, T. Lanting, F. Altomare, A. J. Berkley, S. Ejtemaee, E. Hoskinson, S. Huang, E. Ladizinsky, A. MacDonald, G. Marsden, T. Oh, G. Poulin-Lamarre, M. Reis, C. Rich, Y. Sato, J. D. Whittaker, J. Yao, R. Harris, D. A. Lidar, H. Nishimori, and M. H. Amin
DOI :

お問い合わせ先

東京工業大学 国際先駆研究機構 量子コンピューティング研究拠点

特任教授 西森秀稔

Email nishimori.h.ac@m.titech.ac.jp
Tel 03-3454-8729

取材申し込み先

東京工業大学 総務部 広報課

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Tel 03-5734-2975 / Fax 03-5734-3661

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