東工大について
東工大について
2013年7月、東京工業大学大岡山キャンパスの3つの建築物が文化庁より登録有形文化財(建造物)※1への登録が文化審議会の議を経て、文部科学大臣へ答申されました。
1931年竣工の【西1号館】と1934年竣工の【本館】は、本学が創立の地、蔵前の校舎を1923年の関東大震災で焼失し、1924年に現在の大岡山へ移転、1929年大学への昇格を果たした直後から大岡山キャンパスの歴史を見守ってきました。一方、1950年代後半に竣工した【70周年記念講堂】は終戦から間もない時代、その建築費はすべて卒業生らの寄付によるものでした。
いずれも当時の最新技術の粋を集めて建造されており、その材料や構造、意匠は昭和初期から中期にかけての復興建築物・近代建築物として見応えがあります。それらの設計には若き日の谷口吉郎をはじめとする、当時の建築学科の教員と職員からなる「復興部」が携わりました。
「ものつくり」を大切にしてきた東工大の顔として後世に大切に継いでゆきます。
1935年 北方より本館を臨む(左: 西1号館・右: 本館)
東京工業大学本館は、関東大震災により焼失した蔵前キャンパスから大岡山への移転を終え(大正13年)、昭和4年大学昇格した後、昭和9年に竣工しました。本学には、事務局と建築学科の教員で構成される自前の「復興部」(現在の施設運営部の前身)が置かれ、初期キャンパスづくりを推進しました。
本館の設計者である橘 節男(建築学科・教授)によれば、当初のキャンパス計画では学科ごとに別々の建物を建設するという方針でしたが、全ての学科を一つの建物にまとめたほうが「学校管理上、経済上の見地から、より有利である」との判断から、規模の大きい中心的校舎「本館」を建設することになりました。設計は、橘をはじめとする復興部工務課によるものですが、とりわけ時計塔のデザインには谷口吉郎(建築学科・助教授)が関与したといわれていいます。
本館は、単なる校舎としての機能のみならず、キャンパスのシンボルとしての役割も担うため、正面に時計塔をつけて記念性を表現しています。全長127.4 mの正面は、装飾的な要素は少ないが、単調に陥らず、時計塔で強調された中央部と両端のヴォリュームがバランス良く配置されています。
また、正面には5連アーチの玄関ポーチを張り出した堂々とした風格、西面には9連アーチのロッジアを敷地の傾斜方向に面して設けるなど、敷地の高低差を活かした意匠上の工夫も見ることができます。
本館設計図(正面)
本館設計図(西面)
本館概要
構造 : 鉄骨鉄筋コンクリート造 規模 : 3階建一部4階、地下室・塔屋付
建築面積 : 6,727 m2延床面積 : 24,269 m2(竣工当時) 設計 : 東京工業大学復興部
第一期工事 : 1932年10月竣工 施工 : 清水組 第二期工事 : 1934年8月竣工 施工 : 安藤組
追加工事 : 1935年3月竣工 施工 : 清水巌
分析化学教室は、昭和6 (1931)年9月、本館の建設に先立ち、それまでバラックの仮校舎のみで構成されていた大岡山キャンパスの最初の恒久施設として竣工しました。有毒ガスを発生する実験などに対応する実験施設であったため、全学科の教室が入る本館とは別棟で計画されました。
この建物は本館の北西脇、芝のスロープを下がったところに建てられています。外壁の白色の横長タイル貼り、建物の上端に付けられたテラコッタ製のロンバルド帯、六ヶ村堅石ビシャン仕上げのポーチなど、外観上本館との共通点も見られますが、その一方で、外壁タイルの割り付けなど、本館よりも丁寧に設計・施工されている部分もあります。西立面は背面にあたりますが、建設当時は、グラウンド側から遠望されるため、外階段や円形のバルコニーなどを用いて凝った意匠が施されています。
また、実験室であったため換気方法には特に気を使って設計されました。両翼に配された第1~4実験室の天井の四隅に換気口を設け、屋上に設置したマルチプレート型排気機により各室から直接排気できる仕組みになっていました。
西1号館概要
構造 : 鉄筋コンクリート造 規模 : 2階建一部地下室・塔屋付
建築面積 : 622 m2延床面積 : 1,318 m2
竣工 : 1931年9月 設計 : 東京工業大学復興部
昭和13(1938)年以降は戦時下の厳しい社会的状況から本格的な施設建設はできなかったため、講堂の建設は戦後に持ち越されました。 創立70周年記念講堂は、戦後間もない、1951年の本学創立70年周年を記念して、卒業生や職員などからの寄付金によって建設されました。和田小六学長のもと、3,000万円の募金目標をはるかに上まわる5,200万円以上が集まりました。これは当時の復興途上の日本の状況を考えると卒業生らによる大学への破格の貢献といえます。
この建物は本館前広場の西、斜面の上に立地し、南にはキャンパスの憩いの場である美しい緑の芝のスロープが広がります。こうした敷地条件をうまく読み込んで設計されており、客席を斜面に沿って配することで、建物の高さを低く抑えているので、正門から見るとまるで平屋に見えます。アルミ板張りのヴォールト屋根を、深く出した軒の水平線と呼応させつつ、煙突(現存せず)の垂直線と対比させながら、端正で変化に富んだ表情を立面に与えています。南立面は芝のスロープの背景になるようにデザインされ、端から端まで方立の縦格子が連なり、材質や陰影により立面に変化がつけられています。
設計は、日本近代を代表する建築家であり、1930年から1965年まで東工大建築学科で教鞭をとっていた谷口吉郎教授が担当しました。本建築は谷口中期の代表作です。
講堂概要
構造 : 鉄筋コンクリート造(小屋組鉄骨造) 規模 : 2階建
建築面積 : 2,577 m2延床面積 : 5,180 m2
竣工 : 1958 年頃 設計 : 谷口吉郎 施工 : 清水建設
登録有形文化財(建造物)とは
平成8年にスタートした保存及び活用についての措置が特に必要とされる文化財建造物を、文部科学大臣が文化財登録原簿に登録する「文化財登録制度」です。この登録制度は、近年の国土開発や都市計画の進展、生活様式の変化等により、社会的評価を受けるまもなく消滅の危機に晒されている多種多様かつ大量の近代等の文化財建造物を後世に幅広く継承していくために作られたものです。届出制と指導・助言等を基本とする緩やかな保護措置を講じるもので、重要なものを厳選し、許可制等の強い規制と手厚い保護を行うという、従来の指定制度を補完するものです。
谷口吉郎(東京工業大学名誉教授・建築家) 1904(明治37)年~1979(昭和54)年
金沢の九谷焼の窯元の長男に生まれ、東京帝国大学建築学科で学んだ。1930年から東京工業大学で教鞭をとってから1965年に定年退官するまで多くの 後進を指導した。
作風は「清らかな意匠」である。
初期には西欧新建築への傾倒が見られ、東工大水力実験室(1932年、現存せず)はその代表作である。1938年に渡欧し、ドイツ古典主義建築家シンケルの作品に接して以後は、日本の建築的伝統の現代への継承が最大のテーマになり、藤村記念堂(1947年)はその象徴的作品である。
代表的建築作品には、上記の他、慶応義塾幼稚舎(1937年)、秩父セメント株式会社第2工場(1956年)、本学創立70周年記念講堂(1958年)、千鳥ヶ淵戦没者墓苑(1959年)、東宮御所(1960年)、東京国立博物館東洋館(1968年)等がある。また、博物館明治村を設立した。
1962年日本芸術院賞を受賞、翌年同院会員、1973年には文化勲章を受章した。
【参考文献】「東京工業大学130年史」 (人物事典)
2013年7月掲載