東工大について

20世紀最大のメディア「テレビ」を創ったひと、高柳健次郎博士の軌跡

日本の「テレビの父」と呼ばれるひとは、東京工業大学の卒業生でした。1926年、世界で最初に電子式テレビジョンの開発に成功した、高柳健次郎博士(1899~1990年)です。1940年にはNHK(日本放送協会)技術研究所のチームを率い、テレビの実験放送に成功。第二次世界大戦後も日本のテレビ開発を指揮し、1953年のテレビ放送開始や日本初のテレビ開発、VTRやビデオディスクの開発にも関わりました。

20世紀に生まれた最大のメディア「テレビ」のハードとプラットフォームを創った高柳博士。同氏が通信の世界に興味を持ち、偉業を達成するに至るまでの物語を、本学でメディア論の研究を行う柳瀬博一教授(リベラルアーツ研究教育院)が紹介します。

20世紀最大のメディア出現の舞台裏にいた、東工大OB

2020年の東京オリンピックの開催を控え、国内のテレビ業界では、超高画質の4K8K衛星放送が12月1日開始予定など、ニュースが目白押しです。

日本でテレビの実験放送が初成功したのは1940年。戦争開始で幻となった1940年の東京オリンピックの中継が目標でした。実験の陣頭指揮をとったのが本学の卒業生、高柳健次郎博士です。

「テレビの父」と呼ばれる高柳博士の偉業は、東工大大岡山キャンパス「百年記念館outer」の地下展示室で紹介されています。同氏は1926年、世界で初めて映像の電送と電子式ブラウン管での受像に成功しました。

2018年12月よりBSと110度CS放送で開始される、現行ハイビジョンを超える高画質の映像規格。

約60~70年前に使用されていたモノクロテレビ(高柳記念未来技術創造館)
約60~70年前に使用されていたモノクロテレビ
(高柳記念未来技術創造館)

しかし、20世紀に生まれた最大のメディア「テレビ」の開発者である高柳博士の存在を、現代の東工大生たちすらほとんど知りません。筆者が担当している「メディア論」の授業では、高柳博士の仕事ぶりを紹介しながら、テレビというメディアの誕生について教えていますが、「高柳さんを知っている人?」と質問して「はい」と答える学生はほぼゼロ。一方、「1953年、NHK開局時に同局の専属女優となった人は誰?」と質問すると、「黒柳徹子さん!」と正答する学生は何人もいます。

東工大生の多くが、黒柳さんは知っているのに、大先輩の高柳博士は知らない。これはやっぱり寂しい。そもそも彼が、ハードウェアとしてのテレビを発明し、放送技術を実用化しなかったら、黒柳さんがテレビで活躍すること自体が不可能となっていたはずです。高柳博士の軌跡を追いかけ、研究者として発明者としての先進性を、そしてハードウェアとしてのテレビというメディアの誕生の瞬間を、改めてお伝えしようと思います。

20年後の未来に、世の中が欲しいと思うものを開発する

高柳健次郎博士
高柳健次郎博士

高柳健次郎博士は、1899年、現在の静岡県浜松市に生まれました。尋常小学校時代、海軍の「無線」のデモンストレーションを目のあたりにしたことと、「タイタニック号事件」が無線で世界に配信された新聞記事を読んだことで、もともと科学が大好きだった高柳博士は「通信」に興味を抱くようになりました。そして、1919年、蔵前にあった当時の東京高等工業学校附設工業教員養成所に入学し、初代の東京工業大学学長となる中村幸之助氏の薫陶を受けます。

「いま流行っていることをやるな。10年後20年後、日本になくてはならない技術を見出して、コツコツ勉強しなさい。20年後の未来に、世の中が欲しいと思うものを開発しなさい」

高柳博士は中村氏のこの言葉を胸に秘め、卒業後、神奈川にある工業学校の教員を勤めながら、電気通信の世界で研究テーマを探ります。米英独仏4ヵ国の専門誌を数誌ずつ3年分購読予約し、ドイツ語やフランス語を夜学で勉強し、情報収集に勤しみました。インターネットのない時代だからこそ、グローバルな情報を積極的に集めることが、研究の精度を高めることになる。彼は20代前半にして、既に世界を見据えていました。

1920年、アメリカのウェスチングハウス(Westinghouse Electric Corporation)がピッツバーグでラジオ局を開局し、たくさんの人に同時に音楽や会話を聞かせる「放送」が始まりました。当時、日本にラジオ局はありません。普通ならば、ここで「ラジオを研究しよう」となりそうなものですが、高柳博士は中村氏の教えを思い出し、「ラジオの次」を模索します。

高柳博士が思い描いた空想は、「遠くに映像を送る手段を発明できないか」というものでした。彼は自らの空想を「無線遠視法」と名付け、どうすれば実現できるか、案を練ります。

今はまだないけれど、実現したら誰もが喜ぶものを開発しよう。高柳博士は、エジソンからスティーブ・ジョブズまでに共通する発明家魂、起業家精神の持ち主でした。そして彼はフランスの専門誌に、「テレビジョン」という構想がイラストで示されているのを見つけます。ラジオ受信機の上に額縁のようなものが乗り、中で女性歌手が歌っている。無線遠視法は、まさにこの「テレビジョン」だ!ならば、世界の誰よりも早く、テレビジョンを発明しよう。彼は決意を新たにしました。

世界で初めて成功したブラウン管での撮像、実現しなかったオリンピック放送

静岡大学浜松キャンパスに設立された高柳記念未来技術創造館
静岡大学浜松キャンパスに設立された
高柳記念未来技術創造館

そんな折、高柳博士の運命を変える出来事が起きます。1923年9月1日の関東大震災です。東京高等工業学校も勤務先の神奈川の工業学校も被災し、彼は郷里の浜松にできたばかりの浜松高等工業学校(現・静岡大学工学部)に翌24年、助教授として着任しました。25歳のときです。

浜松高等工業学校で高柳博士にテレビ開発の場を与えてくれたのは、関口壮吉初代校長でした。高柳博士は赴任早々、いきなり関口校長に宣言します。

「浜松にいながら、東京でやっている歌舞伎を見ることができる。そんな無線遠視法(テレビジョン)の開発をやりたいんです」

NHKがラジオを開局するのは翌25年。テレビなどこの世に影も形もありません。ホラと思われてもしょうがない「構想」です。ところが関口校長はひとかどの人物でした。「わかった、俺が文部省にかけあって予算をとってくる。すぐに研究を始めたまえ」と、彼の背中をむしろ積極的に押したのです。

優れた研究には、予算と、素早く決断してくれる上司が欠かせません。高柳博士の「無線遠視法」構想に、心を打つような理論とロマンがあったからこそ、関口校長は決断したのでしょう。

ただし、研究はすぐに頓挫しました。不幸にも関口校長がこの年病死し、高柳博士の破天荒な研究に対する予算は凍結してしまいました。そこでめげない高柳博士は東京の株式会社芝浦製作所(現・株式会社東芝)に交渉し、実験の協力を取り付けます。たった一人で「産学連携」を実現したわけです。

当時、テレビの開発は世界各地で同時に行われていました。大きく分けて、機械式と電子式の2つの方式があり、円形板に渦巻き状に小さな穴をたくさん開けて回転させ映像をコマ送りで送り、同じように穴を開けた円形版を通して映像を映し出す機械式が先行していました。

けれども高柳博士は、巨大な真空管=ブラウン管を使って映像を再生する電子式の方に将来があると確信し、実験に没入していきます。

1926年12月25日、奇しくも大正天皇崩御の日、浜松高等工業の実験室。高柳博士は、石英版に書いた「イ」の字の映像を機械式の円形撮像装置で読み取って、電子式のブラウン管に送り、映像を映し出すことに成功します。世界で初めてブラウン管に映像が送られた瞬間でした。「テレビ」というメディアはここから発達していきます。1930年には昭和天皇の御前で、より鮮明な映像をブラウン管に映し出す実験に成功しました。

高柳博士が実験に使用したブラウン管(高柳記念未来技術創造館)

当時の技術で撮像された「イ」の字(高柳記念未来技術創造館)

高柳博士が実験に使用したブラウン管(左)と、当時の技術で撮像された「イ」の字(右)(高柳記念未来技術創造館)

この時点で高柳博士の考案したテレビは、完全な電子式ではありませんでした。ビデオカメラに当たる撮像管が機械式だったからです。電子式の撮像管作りに苦闘する高柳博士は、同時期にやはりテレビの開発を進めていた米国RCA社(Radio Corporation of America)のツヴォルキン博士(Vladimir Koz'mich Zworykin)と連絡をとって渡米し、彼の研究室に赴きます。そして、同氏が考案した電子式の撮像管アイコノスコープの出来の良さに驚嘆します。圧倒的に綺麗な映像を送ることができる。開発予算もケタ違い。ツヴォルキン博士のアイコノスコープに発奮し、高柳博士はオリジナルのアイコノスコープを開発しました。

アイコノスコープ(高柳記念未来技術創造館)
アイコノスコープ(高柳記念未来技術創造館)

高柳博士はテレビ放送の準備に取り掛かろうとしていたNHKの放送技術研究所に招かれ、本格的な放送の実験を始めます。目標は1940年に開催が決まった東京オリンピック。開催と同時に開局しよう。高柳博士のチームは、ブラウン管とアイコノスコープの改良を重ね、中継車を使って実験放送に成功します。いよいよ日本発の電子式テレビが実現するかに思われました。

ところが、1937年の日中戦争をきっかけに、日本の国際的な立場は急変し、東京オリンピックの開催は中止に追い込まれました。1941年12月8日のパールハーバー襲撃を機に太平洋戦争を始めた日本は、テレビ開発をストップ。世界最先端の通信技術者としての腕を買われた高柳博士は、時代の要請からレーダーや暗視装置、電波兵器の開発に駆り出されることになります。

高柳博士に学ぶ研究者魂と起業家精神

戦後、軍属になったことが災いし、高柳博士は公職追放に遭い、NHKにも学校にも戻ることができませんでした。けれども、日本の電機業界が放っておくわけがなく、高柳博士は日本ビクターに招かれ、NHK、シャープ、東芝などと企業や組織の壁を超え、日本オリジナルのテレビ開発に再び没頭することになります。

1953年、NHKのテレビ放送が始まりました。最初に放映された番組の一つは歌舞伎の中継。高柳さんが浜松高等工業の関口校長に「東京の歌舞伎を地方の自宅で見ることができます」と話していたのが実現したのです。

高柳博士が中心となって開発した日本オリジナルのテレビは、同年シャープより発売。値段は20万円近く、当時の大卒新入社員の1年分の給料に相当する額でした。この年のNHK受信契約者数は866件。テレビは贅沢品でした。それが11年後の1964年開催の東京オリンピックには、9割近い世帯にテレビは普及しました。

高柳博士の胸像とIEEEマイルストーン賞受賞記念碑(静岡大学)
高柳博士の胸像とIEEEマイルストーン賞受賞記念碑(静岡大学)

彼の開発意欲はテレビにとどまらず、その後、VTR、ビデオディスクの開発にまで手を伸ばしていました。テレビ技術の発展に寄与した高柳博士の業績は、米国電気電子学会が歴史的な電気・電子技術分野の偉業に送られるIEEEマイルストーンに認定されるなど、多方面から高く評価されました。

1926年、27歳でテレビを「発明」した高柳博士の仕事ぶりは、21世紀の現在、科学や技術の分野で研究、開発、そして起業を目指す人たちに勇気と指針を与えてくれます。

その背景にあるのは、東工大初代学長であった中村氏の「20年先の未来を目指して、今はないものを研究せよ」という言葉であり、実際にテレビの開発を行った研究室のある浜松高等工業学校の関口校長の「研究者たるもの、自由闊達に創造的な研究を存分に行え。資金は私がなんとかする」という物心両面の支援でした。

「テレビ」というメディアのハードウェアとプラットフォームが、東工大の卒業生、高柳健次郎博士によって生み出されたことを、2020年の東京オリンピックの中継を視聴する前に、今一度思い出していただき、その研究者魂、起業家精神に触れていただければ幸いです。

柳瀬博一(やなせ ひろいち)

柳瀬博一(やなせ ひろいち)

慶應義塾大学経済学部卒業後、日経マグロウヒル社(現、日経BP社)に入社。雑誌「日経ビジネス」の記者、専門誌の編集や新媒体開発などに携わり、書籍編集者に。「日経ビジネスオンライン」のプロデューサーとして連載企画や広告制作を行う。2018年4月より東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。

柳瀬博一|研究者検索システム 東京工業大学STARサーチ

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2018年11月掲載

お問い合わせ先

東京工業大学 総務部 広報課

Email pr@jim.titech.ac.jp