東工大について

「リケジョ」の先達たち

リケジョの先達たち

日本で初めての女子大生は“リケジョ”だった

女性解放運動家として「新婦人協会」を立ち上げ、戦前と戦後にわたって、日本の婦人参政権運動政治的権利獲得に貢献した平塚らいてうや、市川房枝、周囲の無理解にも屈せず「美人画」を描き続け、女性として初めて文化勲章を受章した上村松園、日本初の女性弁護士の一人であり、1952年に名古屋地裁で初の女性判事、1972年には新潟家裁で初の女性家庭裁判所長を務めた三淵嘉子。男性優位の社会の中で道を切り拓いてきた女性たちは、皆逞しく、輝いていました。今回は、理系の分野で男性社会に揉まれながら功績を果たしてきた“リケジョ”の先達たちに焦点を当ててみることとします。

日本の大学で初めての“女子大生”誕生は、今から1世紀前の大正2年(1913)、東北帝國大学で3名の合格者を輩出したことが始まりとされています。当時は、周囲から多くの反発を招き、受験資格を得るのにも物議を醸すほど、衝撃的な出来事であったようです。

東工大女子学生第1号は戦時下に単身子連れで教壇に立っていた

東工大における女子学生第1号が、折原さだです。折原は昭和元年(1926)に前橋高等女学校から東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)の理科に進み、卒業後は母校で一度助教授となりましたが、周囲の強い勧めもあり、折原は東工大の染料化学科に委託生として入学に踏み切ります。昭和6年(1931)に本学に入学した約150名の学生(もちろん彼女以外は全員男子)のうち、染料化学科に入学した学生は折原を含めて13名。その中には、将来夫となる瀧浦潔も含まれていました。卒業後は東京女子高等師範学校で再び教鞭を執りました。

昭和14年(1939)に結婚し、すぐに子供に恵まれたものの、長男が2歳の時に太平洋戦争(1941~1945)が勃発。加えて、昭和18年(1943)には夫が関西に単身赴任。自身が勤務の際は息子を教卓の下で静かに遊ばせながら講義していました。しかしながら、翌19年(1944)には東京空襲が激しくなったため、前橋市の実家に子供を連れて疎開し、始発列車で東京まで通うという過酷な毎日を送りました。そうした甲斐もあって復職後は教授に昇進しましたが、戦後の混乱の中で子連れ単身勤務を続けることは困難と判断し、職業人としての道を断念しました。昭和21年(1946)、夫の住む神戸に移り、以後家庭に入りました。昭和23年(1948)には次男が生まれ、主婦業に専念しました。夫の瀧浦が大阪大学薬学部創設を成しとげたかげに、折原の内助の功があったことは言うまでもありません。折原は、何事にも懸命に取り組む姿勢が災いしたのか、52歳の若さで一生を終えています。女性が仕事を続けることの困難さに加え、戦争という時代にも翻弄された生涯でした。

折原さだ(お茶の水女子大学所蔵)
折原さだ(お茶の水女子大学所蔵)

瀧浦潔・さだ夫妻
瀧浦潔・さだ夫妻

戦後の東工大リケジョのパイオニア

入学試験を受けて入学した最初の女子学生という意味では、十合(とうごう)道子がパイオニアの一人として挙げられます。終戦から2年後の昭和22年(1947)に東工大に入学した十合は、母方の祖父にNECの創業者であり、かのエジソンを唸らせた男としても有名な岩垂(いわだれ)邦彦をもち、また父も東工大出身といういわば理系のサラブレッド。技術者として戦後の復興に貢献したいという気持ちが強く、4.6倍の入試倍率もみごとクリアしたものの、キャンパスライフにはかなりのカルチャーショックを受けたといいます。最も困ったのが、女子専用トイレがなかったことでした。男子が入ってくると出るに出られなくなるため、十合は先生に頼み込み、トイレの1つに「女子専用」と張り紙して貰ったそうです。それでも、そんな彼女の困惑をよそに、男子学生たちにとって十合の存在は「紅一点」として密かな敬意を抱かせるほどに強烈でした。戦場をくぐってきた強者ぞろいの同期生とともに電気工学科で学んだ十合は、東工大を卒業後、「日本を負かした国はどんな国かを見てみよう」と米国に 2年間留学。あの津田塾大学の創始者・津田梅子も在籍していたことのあるペンシルバニア州フィラデルフィアのブリンマー大学にも通いました。このフィラデルフィアで、十合は神学校に留学していた吉岡繁と運命的な出会いを果たします。帰国後二人は結婚し、牧師として仙台と神戸で布教活動に専念する夫を支えました。

現在でも、東工大の同窓会組織である蔵前工業会が主催する連続講座「旧約聖書を読む」に80代半ばを過ぎた吉岡繁・(十合)道子夫妻は体調の許す限り通っています。

「電気屋」から「伝記屋」になったと表現されるほど、電気工学教育に関する歴史資料を収集・整理してきた十合は、生涯学習の点においてもパイオニアといえます。

十合とクラスメートたち

十合とクラスメートたち

時代の狭間で道を切り拓いた理系女子の諸先輩

田中茅子
田中茅子

昭和20年代に入ると、東工大で学んだ女性の活躍はより一層広がりをみせます。その中でも田中茅子(かやこ)は、昭和27年(1952)に東工大の応用物理学科を卒業し、昭和32年(1957)にマサチューセッツ工科大学へ留学し実験に没頭しました。応用物理学科の同期である平野賢一と結婚し子宝にも恵まれましたが、博士号取得の目前となった昭和37年(1962)、病に倒れ37歳という若さで帰らぬ人となりました。しかし、地元紙Boston Travelerは田中の功績を称え、“Hirano's Gone But Honors Live”という記事を掲載し、日本でも同年朝日新聞で紹介されました。

佐藤公子(右)と指導教官の作井誠太(左)
佐藤公子(右)と指導教官の作井誠太(左)

日本で初めて女性工学博士となり、その道の女性パイオニアの一人がハムちゃんの愛称で親しまれた佐藤公子です。佐藤は、東工大で工務員・助手を務め、昭和37年(1962)、38歳の時に工学博士号を取得しています。その後、昭和43年(1968)に電気通信大学に移り、金属材料・機械工学分野の教育研究に貢献しました。

John Blackmore・田中節子夫妻
John Blackmore・田中節子夫妻

昭和25年(1950)、旧制最後の入学生としては、田中節子、国久和子、鍋谷(なべや)愛子がいます。田中は東京女子高等師範学校の理科で学んだ後、東工大に進学。昭和40年(1965)東工大の教授が中心となり青山学院大学理工学部が設立された際には、文科系の一般教育の物理を担当、文系と理系の共通点について試行錯誤を繰り返したといいます。国久は昭和25年(1950)に東京物理学校(現東京理科大学)を卒業し、さらに本学で物理化学の勉強をした後、工業技術院(現産業技術総合研究所)の東京工業試験所に勤め、研究一筋の人生を歩みました。国久の開発した小型熱分析装置は、試料を顕微鏡で見ながら熱分析することを可能にし、液晶などの研究を飛躍的に進展させることに貢献しています。そして鍋谷は、昭和28年(1953)に化学科を卒業し、有機合成化学の世界的権威であった資源化学研究所教授の岩倉義男のもとで有機化学分野の研究を続けました。

国久和子と顕微熱分析装置
国久和子と顕微熱分析装置

鍋谷愛子(後列左)
鍋谷愛子(後列左)

戦後、男女共同参画が推進され、女性の地位が徐々に確立していったとはいえ、研究や講義に多くの時間を割かなければならないリケジョにとって、家庭との両立は並大抵なものではなかったに違いありません。国久は結婚後も論文の姓を旧姓で通しましたが、論文の著者名と旧姓問題は今も女性を悩ませています。とはいえ、諸先輩方の積み上げてきた努力の成果一つ一つが、現代の理系女子の活躍の場へとつながっていることは間違いないでしょう。

羽ばたけ、現代の、そして未来のリケジョたちよ。ツバメのように優雅に、そして軽やかに!

本稿は、本学資史料館が発行したリーフレットの内容を再構成し、掲載しています。

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2014年6月掲載