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数多の産業の未来を切り開くゲノム編集技術

生命理工学院 刑部祐里子 教授

数多の産業の未来を切り開くゲノム編集技術 - 生命理工学院 刑部祐里子 教授

世界を創るテクノロジー

生物の設計図であるゲノム(遺伝情報)[用語1]を編集し、生物の形質を思い通りに変える「ゲノム編集技術」が、その応用分野の広さから近年世界中の注目を集めている。そんな中、ゲノム編集技術の基礎研究に取り組み、新規国産ゲノム編集ツールの開発に成功した刑部祐里子教授。生命の新たな可能性をひもとく、ドラスティックに進歩するテクノロジーの世界へようこそ。

画期的な新ゲノム編集ツール「TiD」の開発

全ての生物は、含まれる遺伝子の数の差はあるにせよゲノムを持っていて、それによって姿かたちや生理的な性質、生態が決められています。そのゲノムの狙ったDNAだけを変化させて、別の形質が発現するように誘導する技術が、ゲノム編集技術です。現在の主流となっている「CRISPR-Cas9」[用語2]というゲノム編集ツールを手掛けた2名の博士は2020年にノーベル化学賞を受賞しています。

遺伝子工学分野における私の研究活動も、ゲノム編集技術の変遷とともに進んできました。私は1990年代、まだ「ゲノム編集」という言葉すらなかったこの頃から研究に着手しました。その後世界中で急速に編集ツールの開発が進み、2010年代にCRISPR-Cas9が登場します。我々も精力的に新手法の開発と実証に挑み続けた結果、ついに世界初の新ゲノム編集ツール「TiD」を開発し、2018年8月に特許出願に成功しました。TiDはCRISPR-Cas9の課題点であった、ターゲットでないDNAの塩基配列[用語3]を編集してしまう「オフターゲット効果」の起こる割合が非常に低いという特長を持っています。現在はそのTiDの実用化を目指した詳細研究が私のメインテーマです。

産業応用により、ゲノム編集技術が開く可能性

「生物がなぜ生きているかどうしてさまざまな機能を備えているかを1つずつ明らかにし社会問題解決の糸口をつかむ。自らの発見が世の中に貢献することを肌で感じられる研究分野です」

刑部 祐里子

刑部 祐里子

Yuriko Osakabe

生命理工学院 生命理工学系
教授

研究室について(External site)

研究者情報(External site)

1992年、東京大学大学院農学系研究科修士修了。1996年、東京農工大学大学院連合農学研究科博士修了。農学博士(東京農工大学)。NEDO(国立研究開発法人新エネルギー・産業技術総合開発機構)によるスマートセルプロジェクトの一環でTiDの開発に携わる。

TiDはゲノム編集技術の応用の道を大きく拡げました。編集の精度が高いということは、これまで安全面でのハードルが高かった医療・創薬分野へのゲノム編集技術の導入にも繋がるためです。今後TiDの実用化ができれば、重篤な遺伝病やがんなどの難病治療、細胞治療に光明が差すでしょう。iPS細胞への活用、ウイルス検出などへの転用も構想されています。もちろん、それ以外の身近な産業へも応用が可能で、例えば植物や微生物から作る再利用可能な生物資源開発の分野に導入すれば、生産を大幅に効率化してエネルギー問題の解決に近づくでしょう。農畜産業分野で品種改良に用いれば、栄養価の高い品種開発や、環境ストレスに対する耐性の獲得、収穫量の増加によって食糧問題の解決が見込めるかもしれません。TiDをはじめ、今や世界中が関心を寄せるゲノム編集技術は、複雑な社会問題の解決を導く可能性を秘めています。

  • 医療分野への応用
    悪い動作を起こす遺伝子をピンポイントで修復することで、遺伝性の病気に対する遺伝子治療や、患者の細胞を編集する細胞治療、がんの新規治療法発見などが期待される。

  • 創薬分野への応用
    製薬過程の効率化に役立つほか、ヒトや動物に投与するワクチンの安全性を高める応用手法も発見されている。

  • 生物資源開発分野への応用
    高度に機能がデザインされた細胞の作製が可能になることで、生物資源の増産や、付加価値の高い資源開発が進められている。

  • 農畜産業・漁業分野への応用
    品種改良への使用で、栄養価の高い農畜産物や、食糧問題を解決するために役立つ大きく成長する養殖魚、過酷な環境でも育つ植物の開発が進められている。

研究は苦労しませんか?と、古い友人などから聞かれることもありますが、私にとっては大変さよりも楽しさが常に勝っています。実験は植物が相手なので根気が必要ですが、自分の仮説が証明される瞬間の興奮を一度経験してしまうと研究はやめられません。未解明の分野を解き明かす研究者としてのときめきを忘れず、これからも生命の原理に迫りたいと思います。

“生物の設計図”を読み解いて利用する

“生物の設計図”を読み解いて利用する

生物は等しく種固有のゲノムを持っている。この“生物の設計図”を読み解いてどのように利用するか人類は長い間頭を悩ませてきた。

ゲノムとは生物が持つ遺伝子のセット。2003年には、13年の月日をかけたヒトゲノムの解読が成功し、今に至るまで多くの生物のゲノム解読が進められている。

「ゲノムのDNAを構成する塩基配列や遺伝子の機能がわかってくると、その情報を使って既存の課題を乗り越えられないか、より良く活用できないかという発想が生まれました。それこそが、遺伝子の機能を変える『ゲノム編集』の原点です」(刑部教授)

ゲノム編集は「DNAの塩基配列を編集し、遺伝子の働きを狙った通りに正確に変える」技術である。ゲノム編集の原理は、まず「分子のハサミ」とも呼ばれる人工の酵素、ヌクレアーゼによるDNA二重鎖切断を特定の部分に引き起こす。そして、生物がその切断を修復する際に発生する修復エラーによる変異を、形質の変化に利用するというものだ。実はこの変異自体は自然界において頻繁に起こる現象で、ゲノム編集はそれを人工的にスイッチを入れて実現させるイメージである。つまり、自然の摂理に近い技術と言えるだろう。

ゲノム編集技術の歴史は、人工ヌクレアーゼ、すなわちDNAを分解できるよう人工的に改変された酵素の開発と、そのゲノム編集ツールを生物に適用できるよう最適化する技術の開発の軌跡なのである。1990年代後半に初期のゲノム編集ツールZFNが開発され、次にTALEN、そして2012年、今日世界中でスタンダードに使われているCRISPR-Cas9が初めて報告された。

「DNA修復の仕組み」で見るゲノム編集の基本原理

「DNA修復の仕組み」で見るゲノム編集の基本原理

ゲノム編集では、DNA二重鎖切断の際に切断箇所を中心として(1)塩基の欠失(2)別の塩基への置換(3)別の塩基の挿入という3パターンの修復エラー(indel)が発生することを利用し、変異を導入する方法をとっている(ノックアウト)。もしくは、ドナーDNAを挿入し、修復時にその塩基配列を写し取らせることでDNA配列を書き換える方法(ノックイン)も利用される。

ゲノム編集ツールはより正確に、より使いやすくと世界中の研究者がバトンを受け継いで、次々に新しいものが開発されてきた。現在主流のCRISPR-Cas9は作製が容易で、かつ基礎研究であれば誰でも使用できるため、多彩な分野への応用の可能性が一気に広がり「バイオテクノロジーの革命」とも称された。

だが、越えなければならない壁がまだ残っている。CRISPR-Cas9を用いたゲノム編集では、狙っていない遺伝子を編集してしまうリスクがある。CRISPR-Cas9は目的とする塩基配列を認識し、その部分を狙って結合してDNAを切断するが、ゲノム中に存在するよく似た別の塩基配列の部分に誤って結合・切断してしまい、変異が導入されてしまう場合があるからだ。そうなると遺伝子が望まない働きを起こしてしまうケースもあり、そのような変異を取り除く必要が生じる。これが「オフターゲット効果」であり、医療・創薬の分野でゲノム編集を活用するために、克服する課題の1つとなっている。

このオフターゲット効果を著しく緩和できる世界初の新ゲノム編集ツールが、刑部教授らが開発した「TiD」。TiDは狙っていない遺伝子を編集するリスクが従来のツールと比べ桁違いに低い。その理由は、CRISPR-Cas9より長い配列を認識するからだ。CRISPR-Cas9は20の塩基配列だが、TiDは35あるいは36の塩基配列を編集箇所の識別に使用するため、並びが似た配列がゲノム中に存在する確率は非常に低くなる。これにより、標的を正確に識別し、標的以外の箇所における変異や欠失のリスクを軽減できるのだ。TiDはこのユニークな特長が故に、ゲノム編集の産業応用の中でもとりわけ医療・創薬分野発展の道を照らす光となっている。

CRISPR-Cas9をはじめ既存のゲノム編集技術はほとんどが欧米で開発されたもので、日本での商用利用には知的財産権の問題が生じる。TiDは国産であるため、海外特許を利用するコストが削減できる点でも魅力的だ。TiDの社会実装は、間違いなく、ゲノム編集を応用した日本独自の産業促進の足掛かりとなるだろう。

目下の課題「オフターゲット効果」

生物の持つ何億という塩基対の中の、特定の20塩基を探索して結合するCRISPR-Cas9。だが、その20塩基のうち1~2つ程度の塩基だけが異なる似た配列がゲノム中に存在した場合、誤って結合する場合がある。これが「オフターゲット効果」だ。

目下の課題「オフターゲット効果」

ゲノム編集技術を社会に実装するには、個々の生物に応じた技術の最適化だけでなく、編集後の生物に目的の形質が正常に現れることを実証するための細胞再生や、そもそも対象生物の塩基配列においてどこをどう編集すれば良いかを見極めるためのゲノム解析といった周辺技術も併せて必須となる。

「例えば私が研究対象生物の1つとしている植物の世界では、植物のさまざまな種や品種のゲノム解析がまだこれからのものも多く、長年組織培養や植物体の再生が成功していない種があるなど、課題も多く残されています。遺伝子工学の研究者は、このような課題にも切り込んでいかねばなりませんが、他分野の研究者との融合知も蓄積されつつあり、近い将来には新たな成果に繋がると期待されます」(刑部教授)

TiDは日本のゲノム編集技術界の救世主となる期待を背負い、技術の共同開発を進めている徳島大学や、TiD技術を活用したさまざまな研究を進めている企業などと一体となり今まさに社会実装を目指す研究が進められている。刑部教授はこう力を込める。

「医療、創薬、生物資源開発、食品における品種改良など多方面での応用の可能性を持つTiDの実用化を目指し、日々研究に邁進しています。複雑な領域が絡み合った社会問題の解決に貢献できるよう、必要な基盤技術を我々が整えていきたいです」

大きな力を持ったゲノム編集技術は、今後正しく活用されるべく研究者らによる議論が重ねられ、人や社会の役に立てる方法が立案されていくだろう。刑部研究室に集う若き遺伝子工学研究者たちは自分たちが行う基礎研究の社会的意義を少しずつ実感しながら一歩、また一歩と研究を進めている。生命の謎をひもとき、新たないのちの形をデザインする日を夢見て。

  • 数多の産業の未来を切り開くゲノム編集技術
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用語説明

[用語1] ゲノム(遺伝情報) : 生物に含まれる、その生物を形作る・生命活動を行うために必要な全てのDNA(デオキシリボ核酸)の遺伝情報を指す。ゲノムのDNAのうち、生物のタンパク質を作るときの、アミノ酸の順序を指定する情報のことを遺伝子と呼ぶ。

[用語2] CRISPR-Cas9 : 細菌の免疫機構を利用しDNA二本鎖を切断して、DNAの任意の箇所に変異を導入することができるゲノム編集ツール。DNA配列の認識にRNA分子を用いている点が特徴で、従来のZFNやTALENといったツールより簡便かつコストが削減できるメリットがある。

[用語3] 塩基配列 : DNAは、ヌクレオチド分子が持つ塩基の部分で対合し二重らせん構造をとっている。この、A(アデニン)、T(チミン)、G(グアニン)、C(シトシン)の4種類の塩基が構成する配列によって遺伝情報が表される。

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生命理工学院 ―複雑で多様な生命現象を解明―
2016年4月に発足した生命理工学院について紹介します。

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Tech Tech ~テクテク~

本インタビューは東京工業大学のリアルを伝える情報誌「Tech Tech ~テクテク~ 41号(2022年9月)」に掲載されています。広報誌ページから過去に発行されたTech Techをご覧いただけます。

(2022年取材)

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東京工業大学 総務部 広報課

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