研究
研究
vol. 28
環境・社会理工学院 建築学系 准教授
鍵直樹(Naoki Kagi)
「近年、日本では省エネを目的に、住宅やビルの気密性※1が向上しています。しかし、過度な省エネ対策に向かうと、思わぬ健康被害を誘発する恐れもあるので、多角的な視点を持つことが重要です」
環境・社会理工学院 建築学系の鍵直樹はこう指摘する。
建物内の環境を左右する要因としては、音、熱、空気、水、光の5つが挙げられる。この中で、鍵が専門としているのが空気だ。「空気中には目には見えないけれども、さまざまな汚染物質が浮遊し、我々はその空気の中で選択の余地なく呼吸しています。その浮遊物質の有無や濃度を測定して“見える化”するとともに、その発生源を特定し、空気中での特性を把握し、さらに対策を提案するというのが私の研究テーマです」と鍵は語る。
エアコンなどの空調機が今ほど普及していなかった数十年前まで、日本の夏は窓を開けて通風換気を行っていた。しかし、高度経済成長期を境に、都心では大気汚染やヒートアイランド現象が徐々に深刻化していき、それとともに空調機が普及。一方で、省エネ対策も進められ、その結果、空調機の省エネ性能向上に加え、建物自体の断熱・気密性向上も図られ、自然換気を行うことはなくなっていった。加えて、床や壁、天井に使う建物の内装材も、天然木材や漆喰といった天然素材から合成樹脂などの人工材料へと変化していき、それにより、シックビル症候群やシックハウス症候群など新たな健康被害が発生することとなった。
シックビル症候群・シックハウス症候群とは、新築のビルや住宅で発生する頭痛やめまい、鼻水、倦怠感などの体調不良のことで、発生当初は原因が不明だった。しかし、建物の建設や家具の製造の際に用いられる塗料や接着剤に含まれるホルムアルデヒドやトルエンなど、木材をシロアリなどの食害から守るために使われる防蟻剤などから発生する揮発性有機化合物(VOC)※2が室内空気中で高濃度となることが原因であることが判明。国の対策としてまず、ホルムアルデヒドなどVOCの室内濃度指針値の制定に続き、2002年に、建築物衛生法(建築物における衛生的環境の確保に関する法律)が改正され、建築物においてホルムアルデヒドの基準値が設定され、測定が義務づけられた。次いで、2003年には建築基準法が改正され、換気設備の設置の義務付けやホルムアルデヒド発散建材・防蟻剤の使用の制限などが定められるに至った。
「そのため、現在は、シックハウス症候群などの問題は解決しているように思われています。しかし、決してそうではありません。建物の性能は向上したものの、室内で過ごす居住者による行為として、芳香剤や消臭剤など新たな製品の過度な使用や、空気清浄器や加湿器の誤った使い方、加えて、集中豪雨による浸水被害の増加などにより、新たな室内環境汚染物質の発生と増加が懸念されているのです。また、計測機器の高性能化に伴い、これまで見えていなかった汚染物質の存在も明らかになってきています」と鍵は語る。
現在、鍵が注目している新たな室内環境汚染物質は、PM2.5※3などの超微粒子、ハウスダストに吸着して浮遊する準揮発性有機化合物(SVOC)※4、カビなどの微生物から発生する微生物由来の揮発性有機化合物(MVOC)※5などだ。さらに近年、急浮上してきたのが、集中豪雨、大型台風による床上・床下浸水に伴うその後のカビ被害や化学物質の発生だ。
揮発性有機化合物の分類
英語表記(略称) |
日本語呼称 |
沸点範囲(℃) |
化合物の例 |
---|---|---|---|
Very Volatile Organic Compounds (VVOC) |
高揮発性有機化合物 |
氷点下(< 0) から 50-100 |
プロパン、ブタン、塩化メチル、ホルムアルデヒド、アセトアルデヒド |
Volatile Organic Compounds (VOC) |
揮発性有機化合物 |
50-100 から 240-260 |
トルエン、キシレン、エチルベンゼン、スチレン、パラジクロロベンゼン、リモネン |
Semi Volatile Organic Compounds (SVOC) |
準揮発性有機化合物 |
240-260 から 380-400 |
殺虫剤(DDT、クロルデン)、可塑剤(フタル酸エステル)、難燃剤(PCB、PBB) |
Microbial Volatile Organic Compounds (MVOC) |
微生物由来の揮発性有機化合物 |
— |
3-メチル-1-ブタノール、2-ペンタノール、2-メチル-1-プロパノール、ヘキサン-2-オン |
「まず、PM2.5を含む超微粒子の発生源としては、大気の侵入に加え、室内での燃焼物などがあります。調理やろうそく、アロマ、ヘアスプレー、ドライヤー、たばこの煙、さらには、コピー機やレーザープリンタなどからの発生も注目されています。また、芳香剤、消臭剤から放出される化学物質が、空気中のオゾンと化学反応することによって発生する二次生成粒子の存在も確認されています。また、近年、天然木材を使った木造住宅の人気が高まっていますが、ここにも課題があります。たとえば、ヒノキに代表されるように、天然木材のにおいにはリラックス効果があるとされています。このにおいは、リモネンなどテルペン類と呼ばれる物質が、空気中のオゾンと化学反応を起こすことで、二次生成粒子が発生することが確認されています」と鍵は語る。
ただし、超微粒子や二次生成微粒子の健康への影響に関する研究はまだ少なく、不明な点が多いのが実情だ。そのため、「いたずらに不安感を抱く必要はありませんが、適切な情報の提供が求められます。我々は、室内環境中における実態がどうなっているのか、科学的な観点から解明したいと考えています」と鍵は指摘する。
一方、プラスチック製品の添加剤(可塑剤)として使用されているSVOCは低揮発性であるため、これまで室内空気中には低濃度で存在するのみで、悪影響になるような濃度にはならないと考えられてきた。しかし、近年、空気中ではなく、床に堆積したハウスダストの中から各種SVOCが検出されており、これが小児喘息の発症と関連があることなどが示されているという。室内環境中において、ガス状物質であるSVOCと粉じんとの相互関係を考慮した複雑な汚染挙動を検討することも重要である。
「現在は室内においては未規制物質である2-エチル-1-ヘキサノールと呼ばれる化学物質があります。塩化ビニル製品を作る際に素材を柔らかくするため、可塑剤として添加するSVOCにDEHP(フタル酸-2-ジエチルヘキシル)が使用されています。塩化ビニル製品とコンクリートが接着している状態にある場合、コンクリートに含まれる水分によってDEHPが加水分解し、2-エチル-1-ヘキサノールが大量に発生していることが判明しています」と鍵。
特にここ数年は、全国各地で発生している集中豪雨などによりコンクリートや建材が大量に水分を吸ってしまい、なかなか乾燥しないことから、2-エチル-1-ヘキサノールの発生が増えていることも考えられる。「実害は匂いが不快なことですが、健康被害も懸念されており、私としても特に注目しているところです。」
集中豪雨などによる室内環境への影響はそれだけではない。元来、水分は室内環境汚染物質ではないが、コンクリートや木材が湿った状態が長く続くと、カビや細菌が発生し、それがアレルギーを引き起こしたり、微生物から産生するMVOCなど、注意が必要だと鍵は喚起する。
「室内の湿度を適切に管理することは大変重要です。加湿器や洗濯物の部屋干しなどによっても、室内の湿度は、建築物衛生法で定められている基準値である40~70%を簡単に逸脱してしまいます。高湿度に伴う健康被害を『ダンプネス』というのですが、湿度が直接空気環境に悪影響を与えないものの、これに伴う新たな室内空気汚染を探求することが現在の私の中心的な研究テーマの1つです。」
鍵は、こういった室内空気環境を最適な状態に保つためには、実際に生活する中で、居住者自身が居住空間を適切に維持管理することに加え、建物自体の設計段階で考慮することが重要だと強調する。
「とはいえ、建物の設計は縦割りで、まず『意匠』、次に『構造』、そして最後に、室内環境に関与する『環境・設備』という順番で降りてくるため、現時点では上流の段階から入り込むのがむずかしいというのが現状です。この状態を打開するには、意匠や構造設計の方が環境・設備への理解を深めるか、我々のような環境・設備の人間が、室内環境に関する現場の課題を吸い上げて発信すること、また、法律を変える、ガイドラインを設定する、そして居住者に適切な建物の使い方を啓発することが有効と思っています」と鍵は語る。
室内で発生する様々な環境汚染物質
そもそも鍵が室内空気環境を本格的に研究テーマに据えたのは、学生時代からもさることながら、2004年から2012年にかけて、厚生労働省の施設等機関である国立保健医療科学院で、研究官として建築衛生、生活環境研究に携わったことも大きな契機となった。厚生労働省は建物を維持管理するための建築物衛生法を所轄しており、国立保健医療科学院はそのための研究・研修機関である。鍵はそこで、建築物衛生法に基づき、建物の立ち入り検査を行う保健所の職員の研修を担う業務に就いた。その業務を通じて、「室内環境を快適に保つには、建物の維持管理ももちろん重要だが、やはり建物を計画・設計段階から見直す必要がある」と強く感じ、2012年に母校である東工大に戻ってきたのである。
「国立保健医療科学院では、建築だけでなく、医療・保健、衛生工学、化学工学、分析化学など幅広い分野の方々と交流でき、視野を大きく広げることができました」と鍵は振り返る。
東工大で研究することの優位性の1つは、実験施設として人工気象発生装置や機器分析計、粒子計測器など室内環境汚染物質に関する各種実験設備が充実していることに加え、共同で研究する環境と人材だという。
「建築系の中で、ここまで実験設備が充実している研究室は全国的に見ても珍しく、他大学や外部の研究所と共同で実態調査や実験、分析を行うことが多くあります。近年、分析計や計測器の性能が大幅に高まったことも、環境汚染物質に対する問題意識の高まりを後押ししています。私の研究は、環境汚染物質の計測と室内における現象把握が中心で、健康被害との関連性に関しては、医学の領域ですので、直接は関与できていません。しかし、今後も現場の課題と向き合い、様々な分野の研究者との情報交換を通して現状をより正確に把握し、対策の提案に尽力していくことで、建築環境工学の面から室内環境を良くするために間接的に健康被害の低減に貢献できればと思っています」と鍵。
最後に鍵は、これまでを振り返り、次のように語った。「東工大の建築学科に入学した当初は、化学物質の分析を行うことになるとは思ってもみませんでした。しかし、現在はこの研究テーマを使命ととらえ、大きなやりがいと強い手応えを感じています。人生におけるチャンスというのはいつ訪れるか分かりません。しかし、常に目の前の課題と真摯に向き合っていなければ、たとえチャンスが訪れたとしても、それに気付かず見過ごしてしまうことになるでしょう。ですから、学生たちには、いつチャンスが訪れても、確実につかみ取ることができるよう、常に何事にも興味をもって勉学に励んでほしいと思っています」
気体が外部に漏れないこと。建物の場合、気密性が悪いとは、建物のすきまが多いことであり、これにより室内外の空気の入れ替わりが起こり、冷暖房負荷の増加に関わる。
常温・常圧で空気中に揮発(蒸発)しやすい有機化合物のこと。ガス状物質(分子)。
有機化合物は建物の中でも溶剤や接着剤、内装材料の原料として多く使用されている。揮発すると室内空気中に浮遊して、室内空気汚染物質となり、シックビル症候群・シックハウス症候群の原因となる。厚生労働省により室内濃度指針値が定められている物質もある。
粒径2.5 µm(マイクロメートル(µm)、(2.5 mmの千分の1))以下の粒子状物質(Particulate matter)のこと。主に、物の燃焼などにより排出されるもの、ガス状汚染物質が化学反応により粒子化したものなどがある。粒径が非常に小さいため、肺の奥深くまで入りやすく、呼吸器系への影響に加え、循環器系への影響が問題視されている。
WHO(世界保健機関)では揮発性有機化合物をその沸点により分類し、沸点が50-100℃~240-260℃の物質を揮発性有機化合物(VOC)、240-260℃~380-400℃の物質を準揮発性有機化合物(SVOC)と定義している。例えば一般住宅内で使用される殺虫剤・防虫剤、殺菌剤・抗菌剤及び可塑剤・難燃剤等。VOCよりも揮発しにくいが、材料から長期間に渡って発生する特徴がある。
細菌やカビなどの微生物が、増殖と代謝の過程において産生する揮発性有機化合物を総称して微生物由来揮発性有機化合物(MVOC)という。カビから発生するMVOCであれば、カビ臭の原因物質となる。
鍵 直樹(Naoki Kagi)
環境・社会理工学院 建築学系 准教授
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2017年12月掲載